真に委ねるべき方

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

新約聖書 ルカによる福音書 23章34~43節

大野桂一によるメッセージ

私たちは、必ず死の時を迎えなければなりません。生まれて来たものが死ぬのは自然の事であると思われます。しかし、死はあくまで納得のいかないこととして、やってまいります。死は自然のようであっても、必ずしも自然ではありません。

若くして病や不慮の死もあり、大震災、戦争やテロよる死、また如何に長生きしても、まだやることが残っていたり、自分の死は納得いかないのです。

死が最大の敵であるのは、たった一人ぽっちで死ぬという究極の孤独の中で、未知への恐怖・不安であり、神の裁きがあるかもしれないとの思いかもしれません。

聖書は、罪の報酬は死である、と言っていますが、イエスの十字架の死こそ、最大の矛盾に満ちた不条理の死でありました。全く罪の無いイエスが、犯罪人として十字架に架けられ死なれたのです。

しかし、この不条理の死こそ、私たちの死の時にも、イエス・キリストが共におられ、私たちの死は、孤独の死ではなく、神と共にある死となったのです。

聖書で言う罪とは、掟を犯したような罪だけではありません。神と交わりがない事が罪と言われているのです。神を想わず何でも自己中心に、自分だけの世界に生きる事が罪なのです。

神はイエスを肉を持った真の人間として、この世に遣わして、神との交わりを回復する道を備えて下さいました。イエスは神の独り子であり、罪は全くありませんでしたが、私たちの罪を全て担い、私たちの罪を十字架上で死ぬことにより処分して下さいました。

主イエスを信じる人は、罪無き者として見做し下さり、生きている時も肉体の死後も、神との交わりが出来るのです。死の時にも一緒に居て下さるのです。

イエスが十字架に架けられとき、二人の犯罪人が右と左に十字架に架けられました。

二人の犯罪人は、その死をどのように受けとめるか、自分だけの世界で一人で死ぬのか、自分の死を見つめて、自分を委ねる方を知って、希望の光をもって死ぬのかであります。

ルカの福音書23章34節~43節十字架上のイエスは自分を十字架につけた者のために祈られました。「『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。若し神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士達もイエスに近寄り、酸いブドウ酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」

一人の犯罪人は、当たり散らして自分一人の世界だけで死に、救いを得ることはありませんでした。共にののしっていたもう一人の犯罪人は、やがて死ぬ自分を見つめ、十字架上のイエスの祈りや態度などを見て、自分を委ねるべき方を知り、自分は許されないがせめて想い出して下さいとお願いし、天国への約束の希望の光を見つめながら死を迎えることが出来たのでした。

家内の父、わたしの義父のお話をします。ちょうど30年前(1982年)の1月29日、義父は自分の死が近いのを悟ったのか、家内に薦められて夫婦で数年間通っていた教会の牧師を自宅に招き、すぐにキリスト教への入信を告白しました。私たちにも連絡が入り、家内は翌日の30日に帰郷し、信仰の事について父と更に話し合いました。義父は私たち夫婦と同じ信仰を与えられたことを、この上なく喜んだそうです。しかし、その夜から、あたかも人生において果たすべきことを終えたかのように、容態が悪くなり、2月1日に入院しました。

義父は、主イエスがわたし達の罪の裁きの身代わりに死んでくださり、主イエスを信じる者は裁かれて死ぬのではなく、滅びゆくこの世界から永遠の御国への門出の死、新しい命への出発であることを知っていましたが、洗礼を受けることは出来ていなかったのです。家内によると、入院中、肉体的な苦痛と戦っている病床で、苦痛のうめきと同時に、何度か「信じます、信じます」と言ったそうです。自分の命をキリストに懸命に委ねて、肉体の苦痛・死の恐怖・不安の中にありながらも、委ねるべき方に自分を委ね、希望の光を与えられたことでしょう。

3日の午前中、まだ意識があり牧師に来て戴き洗礼を受け、その日の夜遅く、亡くなりました。その後奈良で20年間一緒に住んだ義母も、義父の死の13年後に洗礼を受け、キリスト者として、95歳にて安らかに天国へ召されました。2人とも真に委ねるべき方に自分の命を委ねての、希望ある死でありました。私たち夫婦はそう信じ、とても慰められています。

如何に悪人であっても、また、死の直前であっても、どのような人をも救う道を、主イエス・キリストは準備して、あなたを待っておられるのです。

関連する番組