もう一人の自分を持つ

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聖書の言葉

ハレルヤ。私の魂よ、主を賛美せよ。

命のある限り、私は主を賛美し

長らえる限り

私の神にほめ歌をうたおう。

旧約聖書 詩編 146編1~2節

田村英典によるメッセージ

ただ今の詩編146:1に、「ハレルヤ、私の魂よ、主を賛美せよ」とあります。「ハレルヤ」という言葉をご存じの方も多いと思います。「ハレル」とは、ヘブライ語で「称える、賛美する」という意味です。「ヤ」は神様の名前の一部で、「主」と訳されます。従って、ハレルヤとは、「主を称えよ、主を賛美せよ」という意味です。

それはともかく、今朝注目したいのは、詩編作者が「私の魂よ」と、自分に呼びかけていることです。つまり、彼にはもう一人の自分がいて、その自分が現実の自分を少し距離を置いて客観的に見つめ、語りかけています。

同じような例が、聖書には他にも沢山見られます。詩編42:6では、作者は「何故うなだれているのか、私の魂よ、何故呻(うめ)くのか。神を待ち望め」と言い、自分に尋ね、自分と論じ、自分に命じ、自分を促し、自分に命令を与えています。

このことはとても興味深いと思います。聖書に伝えられている信仰者たちは、しばしば、神をしっかり信じ、あるいはキリストに固く繋がっているもう一人の冷静な自分を持ち、そしてその自分の目から、少々弱虫で、すぐパニックを起しそうにもなる、現実の自分を距離を置いて見つめ、時に自分を叱り、自分を論じ、時に神を賛美することを自分に促し、また自分を慰め、励ましもしています。このことは私たちの人生で、とても大切ではないかと思います。

ノンフィクション作家の柳田邦男氏が数年前、『文藝春秋』という月刊誌に「新・がん50人の勇気」というのを連載されました。その中のある月のものに「ホスピスの壁新聞」というのを書いておられます。それを少しご紹介致します。

東京の武蔵小金井にある聖ヨハネ桜町病院のホスピスで、1998年1~3月にかけて、川辺龍一さんとその妻、貴子さんが個室の116号室で71日間を過されました。川辺さんは三菱重工・長崎造船所の技術系社員で、働き盛りの41歳でした。妻の貴子さんは、病室に簡易ベッドを入れ、連日24時間付きっ切りで、夫のケアに当たりました。

ホスピスで暮らされた間、お二人はイラスト入りの小さな壁新聞116NEWSを毎日部屋のドアの外に貼られ、それは他の患者さんや家族、職員、ボランティアの方々の関心の的になり、楽しみになっていました。病室内のプライベートな生活や思いとか、医師や看護師の様子などが、病苦を忘れさせるような明るいトーンで、日替りメニューで公開されました。ホスピスで過す人たちにとって、「川辺さんとこはそうなのか」、「そう、そう、そうなのよ。同じなんだ」、「あのナースのこと、よく描けてる」などと、共感を呼ぶものばかりで、壁新聞の前に立ち止ると、心にポッと温もりの火を灯されたような気持になったといいます。

毎日絵日記にまとめて、ドアの外に張ろうと発案したのは、貴子さんでした。その動機は、ユーモアの味付けをした日記を書くことは、底なしのブラックホールに吸い込まれるような心理状態に陥るのを防ぐ効果があり、更に自分たちの日常を、もう一人の自分が少し距離を置いた天井から見つめる視点を持つことになるから、少しでも前向きに明るく生きて行く心の持ち方に繋がるに違いない、というものでした。

貴子さんの書かれた116NEWSは、ご主人の死の前日のものでも、ユーモアの心を忘れないものでした。『文芸春秋』にはその絵も出ていましたが、折り畳みテーブルの前に座り、食事の品々を並べて、大きな口をあけてパクパクと食べている妻を、ベッドサイドで点滴に頼る川辺さんが、温かく見守るというものでした。

柳田邦男氏は、自分を見つめるもう一人の自分を持つことは、死を前にした生き方に限らず、平常時においても、心の安定した生き方をしていく上で、とても大事な「心の習慣」だと書いておられます。

聖書から見て、私もこれは本当にその通りだと思います。私は20歳の時に洗礼を受け、クリスチャンになりました。それからは、天の父なる神様、また御子イエス・キリストと一緒になって、現実の私を見て語りかけている、もう一人の自分がいることが、しばしばありました。今も同じです。そのお陰で、現実の自分が時には厳しく諌められ、時にはユーモアをもって赦され、慰められ、励まされています。

単にもう一人ではなく、いつも恵みと慈しみに満ちた神の御子、救い主イエス・キリストと一緒にいて、信仰と希望と愛に生き、自分を見ている、そういうもう一人の自分を持つことができると、どんなに幸いかと思います。是非、皆様にもこれを試みていただきたいと思います。

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