聖書の言葉
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
旧約聖書 創世記 1章27節前半
吉田実によるメッセージ
今回も、前回お話いたしました私の息子に関する証の続きを、2回連続でさせていただきたいと願っています。我が家の長男の献は重度の知的障害を伴う自閉症という障害を持っています。そんな息子が与えられましたことで、私たちの家族は色んな苦労もありますけれども、また色んな大切な事を教えられています。今回はそのような、彼を通して教えられたことを中心にお話したいと思います。自閉症とはコミュニケーションの障害でありまして、言葉や表情による意思の伝達ということが非常に難しいのです。息子の場合は重度の知的障害を伴っていますから、言葉を話すということは全く出来ませんし、聞くことも短い単語なら少しわかりますが、長い文章を聞き取って理解することは難しいのです。
キリスト教は言葉の宗教と言われるほど、言葉というものを大切にいたしますので、そのように、息子が言葉を理解することが出来ないと知ったときに、私は大きなショックを受けましたし、一時絶望的な思いにとらわれてしまいました。言葉が通じなければ、聖書のお話も、イエス様のことも、伝えようがないではないかと思ったのです。けれども、そのような暗闇の中に光が差し込むような出来事がありました。それは、彼がまだ5歳くらいのときのことですけれども、ある外国のクリスチャンの方のお宅にお伺いしたのです。そのクリスチャンの方はかつて信仰のゆえに厳しい迫害を経験なさった方なのですけれども、その方のお宅に家族全員でお伺いいたしまして、その信仰の歩みについて色んなお話を聞かせていただいたのです。そのとき、「息子が騒いだら困るなぁ」と正直不安に思っていたのですけれども、2時間ほどの間、彼は実に良い表情でニコニコ微笑みながら、まるでその場の雰囲気を楽しむように一緒に過ごすことが出来ました。
その時私は思いました。「この子にはこの子なりの仕方で、神様や信仰のことを感じることが出来る、特別なアンテナがある。この子にはこの子の言葉がある。この子も、神様の形に造られた人間なのだ!」そして人間の価値は、何かが出来る能力とか功績などにあるのではなくて、この神様の形に似たものとして特別に造られたものであるということ。そういう存在であるということ自体に尊い価値があるのだということを、あらためて教えられました。人はとかく、色んな能力を身につけて、人と競争して、その競争に勝たなければ自分の存在価値はないというような、そういう感覚にとらわれやすいのではないでしょうか。世の中全体からも、色んなところからそういうメッセージか聞こえてまいります。「もっと力をつけなくっちゃ、もっと魅力的にならなくっちゃ、もっと良い成績を収めて、あの人この人に勝たなくっちゃ。でないと、あなたの存在価値はないよ!そのためには、これを買わなくっちゃ!」そしてそうやって色んな力を身につけて、人との競争に勝った人が勝ち組で、そういう競争に勝てなかった人は負け組みであるというような、そんな評価がなされやすいのではないでしょうか。
でも、そうでは無いのです。もし人間の価値がその人の能力によるとするなら、人は年を重ねるに従ってだんだんと存在価値が低くなって、最後には価値のない、役立たずとして人生を終えることになります。けれども、実際はそうではないはずです。ではなぜそうではないのでしょうか。それは、人間の価値の根拠は、その人の能力や功績にあるのではなくて、神様によって神様に似た者として造られた、神様に愛されている世界でたった一人の私であるという、この事実にあるからです。
前回もお話いたしましたように、息子の関係で知り合った同じような障害を持った子供達とお母さん達が毎月集まりまして、ハレルヤキッズスペシャルという集会を今行っているのですけれども、その場に集まってくれる子供達は、何が出来るか、どんな能力があるかという規準で計られるなら、出来ることは少ないのです。けれども彼らと一緒にいるだけで幸せで、そこに彼らのお世話をするために集まってくれるボランティアの人たちの方が、逆に彼らを通して沢山の恵みを受けているように思います。彼らは話すことがほとんど出来ませんが、その存在を通して私たちに語りかけてくれます。「あなたは、僕達のことを受け入れてくれますか。僕達と一緒に、僕達の速さで歩いてくれますか。比べあったり、競い合ったり、戦ったりするのをやめて、僕達と一緒に、生きて下さいますか。」そう語りかけてくれているように思います。そしてそんな彼らを、共に生きる大切なパートナーとして受け入れてゆくときに、私たち自身が豊かにされてゆく。私たち自身の神の形が回復されてゆく。彼らにはそんな不思議な使命が与えられているように思います。彼らの存在そのものが神様からの大切なメッセージであり、神様の言葉なのであり、その言葉を聞けるようにならなければならないのは、むしろ私達のほうではないかと、今は思わされています。