信仰直言『聖化は未完成-なぜ?-』

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:今朝は半年振りに、市川康則牧師の「信仰直言コーナー」です。市川先生、おはようございます。お久しぶりです。

市川:おはようございます。お久しぶりです、ご無沙汰いたしておりました。

田村:半年振りですが、もっと頻繁にお話しして下さったらどうでしょうか。

市川:有り難うございます。でもね、年を取ると移動するのがおっくうになりましてね。同じ神戸でも、六甲山の北側、有馬よりももっと北なんです、今住んでいる所は。そこからこのスタジオがあるJR神戸駅の少し南側まで来るには、時間と体力が要るんですよ。お金もかかりますからね(笑)。

田村:そうですね、もうお爺ちゃんなんだから。

市川:ほっといてくれ!

田村:あら、お孫さんがいらっしゃるでしょう、そういう意味ですよ、お爺ちゃんというのは。

市川:あぁ、そうか。上手く逃げたな(笑)。

田村:ところで、今朝はどういうお話しですか。

市川:はい、これも前に人から聞かれたことなんですが、「なぜ、救いはいっぺんに完成しないのですか」ということです。

田村:へーっ、そんな質問があったのですか。

市川:はい。私自身もそういうふうに思ったことがありますが、真理子さんはないですか。

田村:うーん・・・。

市川:まぁ、こんなもんだと思っていましたか(笑)。

田村:あらっ。

市川:失礼しました。キリスト教で「救い」を言うときには一般に二つの側面から捉えます。一つは神様との関係、もう一つは自分自身のあり方です。

田村:そうですね。義認と聖化、でしょうか。

市川:はい、そうです。義認は「義と認める」と書きますが、神様の前に正しいこと、神様の御心である律法を十分に守り行ない、神様に「合格」「及第」と見做されることです。「聖化」は「聖書」の「聖」、「聖い」という字と、「化学」の「化」、「変化」の「化」という字です。「聖く化する」「聖める」という意味です。

田村:先ず、義認のほうですが、義認は神様の決定ですから、一回限りなんですね。

市川:そうです。なぜ、一回限りかといいますと、イエス・キリストが私たちに代わって神様の律法(御心)を完全に守り行ない、神様に対して正しくあられました。つまり、キリストは神の前に「義」であられました。このキリストを神言い受け入れるとき、このキリストの義―神様の前での十分な正さ―が私にも当てはめられる、私もキリストのゆえに、キリストにあって義と認められるということです。実際、私たちは、誰も自分で神様の御心を行なって神様に良しとされる、そして、永遠の命を与えられるということはできません。神に律法を完全に守り行なってくださったイエス・キリストを信じて、このキリストの義を私にも与えていただく以外に、神様の前に正しくあり得ないのです。

田村:キリストへの信仰によって神に儀と認めていただく、信仰義認といわれる聖書の教えですね。

市川:まさにそのとおりです。

田村:義認は神様の決定ですから、一回的、一回限りなんですね。

市川:はい、そうです。

田村:次に、聖化のほう―清められる―はどうでしょうか。これは一回限りではないんですね。

市川:そうなんです。義認が一回限りならば、なぜ聖化もそうではないのか。なぜだと思いますか、真理子さん。

田村:なぜなんでしょうね、市川先生。

市川:あらっ、質問し直しただけですか(笑)。聖化がなぜいっぺんになされないのかいうことの前に、聖化の内容・中身を確認しておきましょう。聖化(聖められる)は、単に品行方正になるとか、聖人君子になるということではありません。

田村:じゃ、悪いままでいいのですか。

市川:いや、そうではありません。クリスチャンと称して乱暴だったり、素行が悪いのでは困りますね。成果の結果として品行方正・聖人君子になるのはいいことです。聖化とはキリストに似るように変えられていくとうことです。

田村:エーッ! キリストに似る! そんなことできるのですか、普通の人間に。

市川:キリストに似ると言っても、神の御子であるキリストのようになるのではありません。そんなことは不可能です。先ほども言いましたように、キリストは神の御心である律法を完全に守り行ない、人間として神の前に義となられました。私たちは、実際にはなお不完全であるにもかかわらず、このキリストの義を与えられており、今、神様の前に義と見做されています。しかし、ここで留まるのではなく、神との関係で正しい者として、それにふさわしい内容・現実をこしらえて行くことになります。キリストが、私たちが義とされるために守り行なわれた神の律法を、今度は私たち自身が―救いのためにではなく、救われていることを前提にして―自分の信仰の成長のために、キリストの人間としての完全性を目指して、守り行ない始めるのです。

田村:なるほど。聖化とは、神様の御心である律法を守り行なうことを通して、キリストに似ていくようにされることなのですね。

市川:そうです。

田村:では、本来の問題に戻りますが、義認は神様との関係の変化、つまり、罪人が正しい人・義人になるのですから、立場の転換、あるいは変更ですので、一回的ですよね。しかし、聖化は自分自身の性質や状態の実際の変化ですから、やはり少しずつ、徐々に変えられていくんですね。

市川:なぜ、神様は私たちをいっぺんに完全無欠な人間に変えてくださらないのでしょうか。もし私たちの道徳的な性質が一瞬に完璧なものになったら、悪いことを思ったり行なったりせずにすみますよね。

田村:そうでうね。どうしてでしょうね、聖化がいっぺんに完成しないのは。

市川:神様にそうする力がないからでしょうか。

田村:まさか、そんなふうに答えることはできません。

市川:そうですね。神様は全能ですから、もしそうしようと思われるなら、聖化もいっぺんに完成します。

田村:ということは、神様が聖化を一回限りで完成なさらないということに成りますね。

市川:そういうことですね。

田村:でも、どうしてでしょう。それほど人間の罪が深い、あるいは根強いからでしょうか。

市川:人間の罪が深いことは、そのとおりです。罪が赦され、正しいと認められても、人間の内面的現実というか、道徳的実質は、なお罪深さが残り続けます。しかし、これが、聖化が未完成であることの本来の理由ではありません。

田村:えーっ?じゃ、本来の理由は何なんですか。

市川:はい、それは、神様ご自身の一貫性・信実性に関わることですが、神様の最初の行為である創造自体の特徴なのです。

田村:へーっ、神様の創造の特徴ですか。

市川:創造というのは、人と世界に対する神様の最初の行為、最初の関わりすね。

田村:そりゃ、そうですね。創造しなれば、存在しないわけですから。

市川:創世記1章28節に書かれていることですが、神は人に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と命じて、いや、招いておられます。人が増え、地上に広がり、満ちて行くには当然、時の経過を要します。それこそ、いっぺんに地上に広がる訳にはいきません。親から子へ、子から孫へと世代が進み行く中で、人々は地に満ちて地を従わせる、つまり、文化を形成し、歴史を発展させるのです。創世記1章では、まだ人の罪がありませんから、死もなく、救いの必要もありません。人間は神の創造の初めから、個人としても、人類共同体としても、成長・発展を経て、完成していくように神に意図されているのです。

少し分かりやすく言いますと、赤ちゃんは、人格という点では、生まれたときから(母親の胎内にいるときから)既に、十分に人間です。ですから、例えば相続権もあります。しかし、働きという点から見れば、まだ未熟です。成熟するまでに時間がかかります。これは人間だけではありません。罪を犯さない(犯せない)他の動物も―昆虫も、哺乳類も、魚も、いや、植物も―赤ちゃんから大人へと成長します(幼虫から成虫へ、雛から親鳥へ)。神様の最初の関わり、最初の根本的な行為である創造に備わっている特徴―今の場合、成長・発展―が、神様のそれ以外の―それ以後の―すべての関わり・行為を貫くのです。ですから、神様に義とされた人間は、神様との正しい関係にふさわしく、その内面的、道徳的な性質も時の経過を通じて徐々に、しかし、確実に変えられていくわけです。

田村:なるほどね。最初の行為である創造が、人間の成長・発展を含んでいたので、救われた人も、その救いの完成に向けて成長させられていく訳ですね。神様は首尾一貫した方なのですね。

市川:先ほど申しました創世記1章28節は、創世記1章の天地創造物語の終わりのほうにあります。この天地創造は、よく6日間の創造と言われますが―創造自体はその通りですが―より正確には「6日間の創造と7日目の安息」と言わなければなりません。7日間の創造と安息の物語でワンセットです。つまり、1日目、2日目、3日目・・・と進んで行く創造の働きは、7日目の完成―神の祝福と安息―に向けての働きです。創造は最初からその終わり(完成)を目指していた、先取りしていたと言ってもいい、そういう行為なのです。聖化は未完成と言いますが、聖化は漸進(ぜんしん)的であると言うほうが、よりふさわしいでしょう。「ぜんしん」は「前進」(前に進む)とも書けますが―ラジオなので漢字をお見せできませんが―「ぜん」は「さんずいへん」に「くるま(車)」とかき、その右に「きん(斤)」を書きます。「斤」「折る」の「てへん」を取った右側の字です。「少しずつ」「段々と」と言う意味です。聖化は確かに未完成です。そして、人間の罪も)赦されても)なお根強く残ります。しかし、神様の主権的なお働きによって、少しずつ、確実に罪なきキリストに似るように変えられていきます。罪深さを嘆くのではなく―悔い改めは必要ですが―神様の恵み深く、力強いお働きを信じ、それに身を任せましょう。

田村:はい、よく分りました。聖化が未完成であることに驚かず、またそれを嘆かずに、神様の恵み深いお導きに信頼して、今週も歩みましょうね、皆さん。来週も市川康則牧師の「信仰直言コーナー」です。お楽しみに。

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