神の業が現れる

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聖書の言葉

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

イエスはお答えになった。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 9章1~3節

坂井孝宏によるメッセージ

先週に続いて、同じ御言葉を味わいましょう。

前回、イエス様が弟子たちに与えてくださった神の言葉のすばらしさの一端を分かち合いました。生まれつき目の見えないという重荷を与えられた人を前にして、なぜこのような不条理が存在するのか、納得できる答えを与えてほしいと、弟子たちは問いました。

まるで今日の日本の人々が、「なぜ神は東日本大震災という災害を起こされたのか」と問いかけるように。それに対してイエス様の与えてくださった答えは、ある意味で答えではない。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

これはむしろ、問いそのものの否定であり、まったく新しいものの見方を示してくれる言葉です。なぜこのことが起こったのかと、「誰かが罪を犯したからか」などと過去に原因を求めることよりも、この人に与えられている今の苦悩のその意味を考えなさいと言っておられるのです。神はこの苦悩にも、必ず意味を与えておられる。目的を与えておられる。その目的を見つめなさい、未来に目を向けなさいと言っておられるのです。

そしてその目的こそが「神の業がこの人に現れるためである」ということです。神の業が今この人に現れる、この目的のために、この人には目が見えないという重荷がこれまで与えられてきたのだと示されました。では、この人にこの後何が起こったか。時間がゆるされるならこの後のところもぜひ一緒に分かち合いたい、私の大好きな記事なのですが、どうぞ後ほどゆっくりご確認ください。

一言で言えば、目が開かれたという奇跡が起こったのです。イエス様から目に泥をつけられたこの盲人が、シロアムの池に行ってそれを洗うと、なんと目が見えるようになったという驚くべき奇跡が記されています。そしてこの奇跡を通して、イエスのすばらしさが証しされ、神がほめたたえられるようになっていく。そういう意味で、非常にわかりやすい仕方で神の栄光の御業があらわされたのだと、この後の記事は続いていきます。

しかしご注意いただきたいことは、この驚くべき奇跡は、ここで現れた神の業のほんの一端の、表面的なものにすぎないということです。この盲人が目を開かれたという出来事はしるしに過ぎません。より大切なことは、このしるしが指し示している霊的出来事です。この時起こったのは、肉の目が開かれたという癒しの奇跡にとどまらない、霊的な開眼です。イエス様が、罪人の心の目を開いてくださって、希望の光を見ることができるようにしてくださった、それこそがもっとも重大な神の業の現れです。

今回説教準備をする中で、実際に目の見えないキリスト者たちの会合に参加された方の手記を目にしました。その中の多くの人が他ならぬこの記事に大きな慰めを受けて、キリストを信じた、そのことを知って大きな感動を受けたと言われていた。その方々は、この男のように目が見えるようになったのではない。目は見えないまま、でも私にはこのようなことが起こらないと絶望してしまうのではなくて、そうだ、私の目の不自由なのは、私を通して神の業が現れるためなのだと、その人たちは信じた。

そういうことがたくさんの人に起こった。そしてその会合は、本当に明るかったとのこと。光が見えた、本当にキラキラとまぶしかった、確かにここに神の救いの業が表れていると思ったとのこと。神の救いの輝きがこれほどまでに輝き出るように、まさにそのために、神はこの人たちに目の見えないという試練をお与えになったのだと、ある老牧師が感動を込めて記しておられました。

そこにはまさに目が開かれて、光を見出した人たちがいるのです。自分の目に映る過去の悲惨、今の貧しさ・弱さ・嘆きを超えて、キリストが示してくださる希望の未来に身を委ねた人たちの、底知れない明るさです。本当に強いのはそういう人なのだと思います。霊の目を開かれた人、そしてどんな絶望の中にも希望を見出すことができるようにされた人です。

私のいます九州にも、そんな輝きを放っている兄弟がいます。彼は筋ジストロフィーという病を負って、歩くことも立つこともできません。今は二十四時間、人工呼吸器を手放せないほどに病状は進行しています。弱いという言葉を使うならば、これほどに弱く、悲惨な人はいないかもしれない。

でも私は、彼に会うたびに力を得るのです。主が彼のうちに生きておられることが分かるのです。信仰に生きるということはかくもすばらしいことかと、いつも彼から教えられます。まだ年若い兄弟です。不安や恐怖や悔しさや怒りや、そんな思いからまったく自由であるということではないと思います。

今でも「私の人生は何なのか?」と、病気が悪化するたびに嘆いてしまうと聞きます。でも今の彼は、自分に与えられた病気の「意味」を考えています。こういう病を与えられた、自分にしかできない働きがあるはずだと、インターネットを通して様々な仕方で聖書の恵みを取り次いでいます。

そんな彼のもとに、苦悩を背負った方々が集まって、生きる勇気を得ていると聞きます。彼に命を与え続けておられる、復活の主イエス・キリストの栄光が、そのようにしてあがめられているのです。神の業が現れるとは、そういうことなのです。

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