なぜこんな不幸が

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聖書の言葉

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

イエスはお答えになった。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。]

新約聖書 ヨハネによる福音書 9章1~3節

坂井孝宏によるメッセージ

今日この放送を録音しているのは7月11日です。東日本大震災からちょうど4ヶ月となります。私はふだん東北から遠い熊本に住んでおりますので、直接的な被害を受けた方は周りに一人もいません。しかし皆様それぞれに、心に痛手を与えられています。何度も質問を受けました。「どうして神様はこのような災害を起こされたのか。」納得できる答えを与えてほしくて、牧師に質問してこられる。

今日の御言葉において、弟子たちもまた同じように、イエス様に問いかけています。今目の前には、生まれつき目が見えずに、物乞いをして生きるよりないという不幸な人がいる。この不条理は、なぜ起こるのか。なぜこの人にこんな不幸な生涯が与えられているのか、納得できる答えを示してほしいと願って、イエス様に問いかけているのです。

弟子たちは聞きました「ラビ(すなわち先生ということ)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」ここで弟子たちは「だれが罪を犯したからですか」と問うていますね。彼らの思いとしては、この人の不幸は誰かの罪のせいだとイエス様に言って欲しいということがあったのでしょう。そうでなければ、世の中にこんな不条理があることを納得できないのです。誰かの罪のせいだと考えれば納得できるし、対策も立てやすい。

今回の震災に際して、キリスト教会の中でも「これは神様の裁きの思いのあらわれだ。私たちの現代社会に対して、悔い改めを迫っておられる」という声もあるようです。一面においてそれは真理でしょう。そして、「確かにそのとおりだ、生活を悔い改めよう。社会の構造そのものも変革せねば」と、人を動かす力を持っているとも思う。

しかし、同時に私は思います。その答えが、現実に今悲しんでいる方にとって、何の意味があるのだろうかと。「だれが罪を犯したのか」その問いに答えを与えられたとしても、それは弟子たちにとっての慰めにはなっても、この目の見えない人の慰めにはなりません。ただむなしさしか与えないのではないでしょうか。

イエス様はどうお答えになったのでしょうか。こうあります「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

神の言葉とは、こういう言葉です。ここでイエスはまったく新しい物の見方を弟子たちに示してくださっていることが分かります。弟子たちのまったく思いも浮かばなかった視点から「ただ神のみ業がこの人にあらわれるためである」と答えられた、つまり「この目見えぬ人の今ある不幸は、彼の身の上にこれから神の栄光が現れるための布石なのだ」と言われる。

このようなイエスのお言葉は、弟子たちの問い、いわば「なぜこの世に不幸があるのか」という問に対する論理的な答というわけではないでしょう。正しい答えを用意したというのではない。むしろ問いそのものを否定しているのです。そして問いそのものの方向性を変化させているのです。いわば今の不幸の原因など、どうでもいいと言われる。過ぎ去った過去に原因を究明してそれが何になるというのか。そうではなくこの人の不幸の意味を、目的を考えなさい。この目見えぬ人の確かに不幸なこの状態を、神がどのように用いられるか、この人を通して神はこれから何をなそうとしておられるのか、その神の未来に目を向けなさい。それがイエスが与えてくださる新しい物の見方です。

この人が不幸だなどと決め付けるな、と言っておられるようです。そこには確かに神が与えた意味があり、目的があるのだと。そうしてイエス様は、彼に近づかれます。不幸の原因を議論することよりも、今悲惨の中にいる人間を憐れみ、ご自分からまずそばに近づいてくださるのです。

神様の人間に対するなさりようは、いつもそういうものであるということを思わされます。私たちは神に問い、聖書に答えを求めます。自分の不幸について、世界の不幸について。どうして私だけ、どうしてあの人が。でも神はそんな議論には付き合われません。

神はそんなことを教える前に、苦しむ私にまず近づいてくださり、抱きしめてくださいます。そして、神の未来を示してくださいます。あきらめしか見えない人間に、神の見ている希望を見させてくださって、前へ、未来へと目を向けさせる。そしてその人に与えられた苦悩の「意味」を教えてくれます。「神の業が現れるためだ」と、意味を、目的を教え、涙で疲れ切ってしまった人の手を取り、足を支え、その目的の成就に向かって共に歯を食いしばってくださいます。そのようにして、神から力と勇気を注がれて歩む信仰者の上に、思いを超えた神の業が現れ、やがて神の栄光があらわされます。それが神のなさりようです。

どうしてこんなことがあるのか、神の声が聞きたい、答えてくれと、人間が叫ぶその時に、ただ黙ってその人を抱きしめ、背負っていてくださる。イエス・キリストにおいてご自身をあらわしてくださった神は、いつもそのようにして、ご自分の御心をあらわされるのです。

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