十字架の主に従う

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聖書の言葉

今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 4章11~13節

吉田謙によるメッセージ

今日は、初代教会の最大の伝道者パウロの書いた手紙から教えられたいと思います。

「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返している。私たちは世の屑のような存在なのだ!」これは、決してカッコイイ姿とは言えませんね。けれども、そのようなパウロたち伝道者の姿を通して、確かに十字架のキリストは宣べ伝えられていったのです。

初代教会は、この後、約300年間、厳しい迫害の時を過ごしました。川が氾濫する。飢饉が起こる。疫病が流行る。そういう悲惨な出来事が起こる度に、決まってクリスチャンがやり玉にあげられました。「あんなクリスチャンたちがのさばっているから、この世は呪われるのだ。クリスチャンを捕らえて、ライオンに食わせよ」人々はこう叫んだそうです。全く根拠のない言いがかりです。このような言いがかりによって、沢山のクリスチャンたちの命が奪われていきました。その時、初代教会の人たちはどうしたでしょうか。

「憎しみには憎しみを!」と言ってやり返したでしょうか。あるいは、「今は迫害の時だから、ひっそりと隠れていよう。やがて迫害がやんだなら出て行けばよい。」そうやってビクビクしながら隠れ潜んでいたでしょうか。決してそうではありません。教会は今日の箇所でパウロが語っているように、侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返していったのです。「あなたも神様に愛されている。あなたのためにもイエス・キリストは死んでくださった。悔い改めてこの福音を信じるように」と、大胆に神の愛を語り告げたのです。このクリスチャンたちの愚かしいまでにへりくだった姿が、次第に人々の心を動かしていきました。「死をも恐れずに命がけで神の愛を伝えようとしている、この人たちの情熱、信仰は本物ではないか」と。

1950年、朝鮮動乱が勃発した時、同じ民俗が北と南に分かたれ、朝鮮半島は戦場と化しました。村を占領した共産軍は、教会に集まっていたクリスチャンを広場に引きずり出し、「踏み絵」を強要した、と言います。無神論を掲げる共産軍は、クリスチャンに信仰を捨てることを求めて、そのしるしとして「踏み絵」を強要したのです。踏み絵に使われたのは、礼拝堂の片隅に掛けられていた、イエス様が描かれた、なじみ深い聖画であった、と言います。まず年配の教会役員から戸惑いながらも、その聖画を踏んでいきました。そして次々に年輩の信者たちが聖画を踏んでいきました。そして、ついにその少女の番になった時に、その少女は静かに腰をかがめ、よご汚れた聖画を手に取って泥をぬぐい、涙を流しながら自分の胸に抱きしめた、と言うのです。単なる一枚の絵です。「そんなものに命をかける必要はない!」「この場面で、聖画を踏むか踏まないかは信仰の本質ではない!」多くの人たちがそう考えました。確かにその通りでしょう。けれども、人生の究極の選択の場面で、迫害という本当に大きな苦難の中で、この少女の思いの中には、ただイエス様のことしかなかったのではないかと思います。

この少女は、何も頑張ったわけではありません。ただ毎日、イエス様と親しく交わり、その喜びを生き生きと味わっていました。イエス様が本当に大好きでした。ただそれだけです。踏み絵を涙を流しながら自分の胸に抱きしめたというのも、そういう日々のイエス様との深い交わりの中から、極々自然になされた行為だったのではないでしょうか。

「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返す」これは初代教会の最大の伝道者であったパウロだからこそ出来たことではないか、あるいは初代教会の熱烈な信仰者たちだからこそ出来たことではないかと私たちはついつい思いがちです。しかし、よくよく考えてみますと、これらのことは全てイエス様が私たちのために成し遂げて下さったことばかりです。イエス様は「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返」しつつ、十字架の死への道を歩んで下さいました。敵対し、裏切る私たちを救うために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」こう祈られながら、ボロボロになって、血まみれになって、神様の怒りと呪いを一身に背負って十字架の上で死んで下さったのです。このイエス様にしっかりとつながり、このイエス様に従って歩む時に、私たちも、少しずつ少しずつ、このイエス様に似る者へと変えられていくのではないでしょうか。

似たもの夫婦という言葉があります。勿論、最初からよく似た者同士が結婚するということもあるでしょう。けれども、必ずしもみんながみんな最初から似ているわけではありません。最初はお互い違ったところが沢山あったけれども、長い間連れ添っている間に、お互いの善いところも悪いところも影響しあって、だんだんと似てくる場合があるのです。これは私たちとイエス様との関係においても言えることではないでしょうか。イエス様は今も生きて私たちと交わって下さる人格をもたれたお方です。何かの理念や思想やエネルギーというわけではありません。ですから、このイエス様と深く交わっていくならば、たとえ未熟な私たちであっても、少しずつ少しずつイエス様に似る者へと変えられていくのです。このことに期待しつつ、日々聖書の御言葉に親しみ、祈る生活を大切にしていきましょう。

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