自分の人生は嫌い

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聖書の言葉

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2章20節前半

大西良嗣によるメッセージ

私は、「自分の人生」という言葉が、好きではありません。今でも、「自分の人生」という言葉を聞くと、胸が重苦しくなるような気がします。人生が、順調で、比較的思い通りになっていたときには、「自分の人生」という言葉を聞いても、特別に何も感じませんでした。

しかし、人生を歩めば歩むほど、自分の思い描いていたものが実現しないことを、認めなければならない場面に出会っていきます。思い描いていたことは、もっと良かったはず、もっと素晴らしかったはず。けれども、現実はそうはいかなかったということを、何度も経験させられます。

「自分の人生」という言葉を聞くと、私は、自分が勝手に思い描いていた理想的な人生と、それが実現しなかった現実を改めて認めさせられているような気がするのです。それだけではありません。そのような理想的な人生を思い描くこと自体が、何とも傲慢であったと、自分の傲慢さを突きつけられるような気がするのです。

人生の選択を迫られているとき、例えば、どの学校へ行こうかと迷っている、どのような職場に勤めようか迷っている、この人と結婚してよいのかと迷っている、そのような人生の選択を迫られているとき、「自分の人生」という言葉がキーワードにされることがあります。

自分こそが、「自分の人生」の所有者なのだから、人生の選択について「自分の人生」というキーワードが前面に出るのは、当然だと、言えるのかもしれません。

けれども、人生の所有者として自分が選択した人生の行き先は、いつも最善のものなのでしょうか?人生の中で、予想していなかった問題が起こったり、乗り越えることが簡単ではない障害が生じたりすると、つい、あのときの選択は正しかったのだろうか?そのような、疑いを持ちたくなります。「自分の人生」は、あそこで間違えてしまったのではないか?あのとき別の選択をしていれば、もっと良い人生を送っていたのではないかと、思わず考えてしまうことがあります。

自分で「自分の人生」に責任を持ち、支配し、コントロールしなければならないのだとしたら、これほど難しいことはありません。「自分の人生」は、自分ではどうにもならない。人生を歩むにつれて、私はますますそのように思うようになっています。人生を、自分の所有物であるかのように、「自分の人生」と呼ぶのは、あまりにも責任が重過ぎます。人生を、自分の所有物のようには扱えない、という現実を、直視していないのように思えます。

パウロという人は、ガラテヤの信徒への手紙2章20節で、

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

と言いました。「生きているのは、もはやわたしではありません。」つまり、自分の人生は、自分のものではないのだと彼は言うのです。むしろ、「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と彼は言います。私の人生は、自分自身の人生なのではなく、「キリストの人生」だ、キリストが所有する人生だと言うのです。

これは、あたかも、「自分の人生」を手放すかのようです。そんなことがあってよいでしょうか?自分以上に、「自分の人生」に対して権利を持っている人がいることなど、許されるのでしょうか?何か、損をしているような気がします。

ところが、「自分の人生」が、自分のものではない。「自分の人生」がキリストのものだと、認めることで、私はかえって心が穏やかになります。私の心の中に、どうしても、時々、湧いて出てくる、「あのときの人生の選択は正しかったのだろうか」という疑問や後悔がなくなります。キリストが私の人生の所有者で、支配者なのだと思い起こしたとき、「あのときの人生の選択は、あれでよかったのだ」と思えるようになるのです。人生の選択で迷っているときにも、「キリストが私の人生の責任を取ってくださる」と確信できたときには、思い切って踏み出すことができます。たとえ、予想したとおり、思い描いた通りに、事が進まなかったとしても、そのように滞りが生じたこと自体に意味があるのだと思えるようになります。なぜなら、私が生きている人生は、すべてを治めておられるキリストの人生だからです。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」このパウロの言葉を、私自身、心に何度も刻み込みながら、歩んでいます。そのように心に刻むことが、この人生を良いものにしていると、確信するからです。

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