信仰直言『死人の復活~あり得ん?』

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:先週に続いて、今週も、市川康則牧師の「信仰直言コーナー」。市川先生、おはようございます。

市川:おはようございます。

田村:きょうは、先週おっしゃったイースターですね。イースター、おめでとうございます。

市川:うゎー、気合が入ってますね。2回もエコーがかかりましたね(笑)。

田村:イースターって何でしたっけ?

市川:えっ?

田村:と、言うのは冗談ですが(笑)、でも、イースターって、日本じゃそんなに知られていないんじゃないかと思うんですけど。

市川:そうでしょうね。

田村:クリスマスを知らない人はいないと思いますけど、クリスマスに比べると、イースターはそれほど知られてないですよね。

市川:そうですね。残念ながら、

田村:でも、教会じゃ、イースターはクリスマスと同じように大切な日、特別の日ですよね。

市川:そうです。というより、始めの頃のキリスト教会ではクリスマスよりイースターのほうがもっと重要だったんです。

田村:そうなんですか。

市川:古い文献を調べても、起源4世紀前半以前には見当たらないと言われています。キリスト教がローマ帝国内で公認されてからのお祭りのようです。しかし、イースターは、キリストの復活を記念し、特別に祝う行事ですから、キリスト教の歴史の文字通り最初からありました。

田村:ということで、きょうはそのイースター、キリストの復活にちなんだお話しをお願いします。今朝のテーマは?

市川:「死人の復活―あり得ん?―」

田村:微妙ですね。「あり得ん!」じゃなく「あり・得・ん・?」ですか。なぜ、イースターがそんなに特別な日として祝われてきたんでしょうね。

市川:キリストが復活したという特別の出来事のためです。

田村:キリストが復活したということは、聖書の教えの中でも、最も大事なことなんですね。

市川:そのとおりです。聖書は色々の大切なこと事を教えています。人を愛しなさいとか、忍耐深く寛容でありなさいとかね。けれども、キリストが死からよみがえられたというのは、最も根本的な教えです。

田村:でも、キリストの復活は、なぜそんなに根本的なんでしょうか。復活なんて、普通はなかなか信じられないですよね、正直言って、というか、はっきり言って、そもそも、死んだ人が生き返るなんてとても信じにくいし、あり得ないことだと思われていますよね。

市川:確かにそのとおりです。でも、なぜ、死んだ者がもう一度生き返る、復活するということを信じられないと思いますか。

田村:ウーン。どうしてでしょうね。当たり前のことのように思いますが、改めてなぜと聞かれると、やはり考え込んじゃいますね。誰も死んで生き返った人がいないから、死人の復活なんてあり得ないと思ってしまうんじゃないんでしょうかね。

市川:確かに、死んだ人間がもう一度生きるなんてことは、大変考えにくいことです。でも、そうだとすると、人は死んだらもうおしまい。人生、良く生きようが悪く生きようが、人を愛して生きようが、自分さえ良ければ後は知るもんか式に生きようが、とにかく死んだらおしまい、ということになるのでしょうか。そうすると、人生を良くしよう、社会を良くしようとするあらゆる努力は、どういう意味があるのでしょうか。しょうか。どうせ死ぬのだから、あれこれ悩んだり苦労したりしても、何の得にもならない。それなら、適当に面白おかしく生きたほうがよっぽどましだ、ということになり兼ねません。しかし、こういう生き方は自己中心的で、無責任であり、そして、目標のない、実に空しく寂しい生き方ではないでしょうか。そう思いませんか?

田村:そんな生き方だったら、寂しくはかない人生でしょうね。

市川:有名な文豪、夏目漱石は、娘のひな子が―5女でしたが―先に死んだんですね。1911年、明治44年です。子供に先立たれた親の気持ちは、言葉に表わせないほど辛いものがありますよね。日記に、葬儀が終わってからの心境を述べています。「今日は骨上げ、明後日は納骨、明日はもしかすると待夜である。多忙である。然し凡ての努力をした後で考へると凡ての努力が無益の努力である。死を生に変化させる努力でなければ凡てが無益である。こんな遺恨な事はない。」どんな努力をしてもいずれは死ぬのなら、その努力は一体何だろうという訳ですね。

田村:でも、誰でも皆、それなりに努力して、生きているんじゃないでしょうか。そりゃ、どうせ死ぬんだから、何をしたって結局おんなじだと言われれば、それまでですが・・・。そんなふうに言ったら、学校の勉強とか、社会で働くとか、すべてのことは無意味・無価値ということになりますよね。それって、乱暴な言い方に聞こえるんじゃないかしら。

市川:もちろん、漱石は人生の究極的なこと、根本的なことを言ってる訳でして、文字通り、死を克服するのでなければ、勉強も、勤労も、ボランティアも、発明・発見も、何もかも全く無意味、無価値などと言ってる訳じゃないと思いますよ。でも、敢えて言えば、人類の歴史などと大きなことを言わないで、この私の人生、他の誰でもないこの私の運命ということを考えますと、やはりどんなことをしても死ぬということになれば、何をどうやってみても、その意味・価値はどうなるのでしょうか。やはり、漱石の言うことは本当だと思います。

田村:でも、じゃ、どうしたら死を生に変えられるのでしょうか。

市川:死の現象は取り除くことはできませんが、死をどう見るか、人生にとってそれはどういう関わりを持つものと見るか、今まで持っていた死についての観方・考え方を新しく変えることはできます。

田村:どうしたら死の観方・考え方が変わるのでしょうか。

市川:これも前にご紹介したことがありますが、すみません同じことの繰り返しで、進歩がなくて、

田村:ご心配なく、分かってますから。

市川:あらっ、まぁいいや。

田村:どうぞ続けてください。

市川:ハイ。元京都大学教授で、医学博士の東昇(ひがし・のぼる)という方がおられました。「死とはなにか」という特集テーマの本の中で「医学からみた死」という論文を記されたのですが、大変興味深いことをおっしゃっています。とびとびに引用します。「医師は、医学がすでに治療の不可能を宣言している病気に、どのように対処するのか。・・・死を前にした病人の精神的苦悩を如何にして慰め、力づけるか。・・・医学はどんなに進歩しても、人をして死から越えしめることはできない。死に対する達観は、哲学的思想、高次宗教の信仰にこれを求めるほかない。医師は深い宗教哲学を持つことが必要なのではないか。・・・生命力の尽きた患者に生命力を与えることに医学は無力であり、それはどんな医師にもできない。これに答えるものは、医師の医術に加うるに医師の哲学であり、高次宗教である。」

田村:へーっ。その医師の哲学とか、高次宗教って何なんでしょうね。

市川:そう、そこなんですよ。この方がどういう宗教を信じていらっしゃったか、どういう哲学的立場であったのか、この論文が載っていた本からは分かりません。でも、言われていること自体は、本当にそうだと思います。ところで、真理子さん、天動説とか地動説とかご存じでしょう。

田村:えっ?いきなり何ですか。太陽が地球の周りを回っているとか、反対に地球が太陽の周りを回っているとかいう、あの天動説と地動説のことですか。

市川:そうです。どっちが正しいか、知っていますよね。

田村:もちろん、そのくらい私だって。地動説ですね。

市川:では、見たことありますか、本当に地球が太陽の周りを回っているところを。

田村:見たことはないけれど、誰でも知っていますわ、子どもでも。学校でそう教えられているでしょう。

市川:しかし、ヨーロッパでは古代から近世になるまで長い間、天動説が教えられていていましたね。

田村:ええ、そうですね。

市川:もう一つ聞きますが、昔は太陽が地球の周りを回り、地動説になってから地球が太陽の周りを回り出したんでしょうか。

田村:そんなことある訳ないでしょう。

市川:すみませんね、くだらない質問をして(笑)。地球が太陽の周りを回るということは大昔から、そしてこれからも同じ出来事です。しかし、どちらがどちらの周りを回ると見るかは、正反対です。文字通り、天と地ほどの違いがあります。

田村:一つの現象に正反対の見方があるなんて面白いですね。でも、そんなことはしばしばありますよね。同じ事件でも、新聞や雑誌によって解説や分析の仕方が非常に違うことがありますね。

市川:そこなんです。人間がいずれ死ぬことには変わりません。しかし、死をどう見るか、死ぬということは、生きているものにとって初めから避けられないこと、本質的なことなのか、それとも、何か不自然なこと、本来あるべきではないことなのか、これは死についての正反対の見方、捉え方ですが、そこに死に対処する一つの糸口というか、きっかけがあります。

田村:そこに、漱石の言う「死を生に変えるもの」、東昇さんのおっしゃる「高次の宗教」に通じるものがあるのですね。イエス・キリストの復活も、それだけ取り出すとあり得ない出来事になってしまいますけれども、別の見方もあるということですね。

市川:そうです。聖書は、神は人を神との交わりの中で永遠の命に生きるように造られたと教えます。死は人間の罪に対する神の裁き、刑罰です。しかし、キリストの復活はその死を克服する神の力と愛です。キリストの復活は、本来、人を生かす神の意志、神の愛を回復する出来事なのです。このことを信じ、キリストを信じ受け入れて神に立ち返ることによってだけ、死の恐怖を克服し、積極的に自分の人生を生きることができます。皆さん、死ぬまで生きます、いや、死んでも生きます!死人の復活―「あり得ん」ではなく「あり得る」のです。あります!復活します!

田村:有り難うございました。ラジオをお聞きのあなた、如何でしたか、きょう、是非、お近くの教会のイースターの礼拝にお出かけください。

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