信仰直言『キリストの身代わりの死~頼みもしないのに?』

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:今週と来週は、5ヶ月ぶりに市川康則牧師の<信仰直言コーナー>をお送りします。市川先生、お久しぶりです。よろしくお願いします。

市川:はい、お久しぶりです。よろしくお願いいたします。

田村:今朝はどういうお話ですか。

市川:はい、今朝は、キリストの十字架についてお話します。数年前にもこのお話しをしたことがありますし、また、他の多くの先生方も直接に間接にこのテーマでお話しして来られました。

田村:そうですね。キリストの十字架の死は、聖書の、特に新約聖書の中心的な教えですからね。当然と言えば、当然ですね。それで、先生もまたこのお話し・で・す・か?

市川:何だか、喜ばれてないような、怪しまれているような気もしないではない・・・ですが。

田村:いえいえ、喜んでますよ。ねぇ、皆さん。

市川:ガラスの向こう側で、みんな複雑な笑い顔になっていますよ。実は、今日から始まる1週間は、キリスト教会で「受難週」といいます。受難とは「苦難を受ける」と書きます。キリストが死からよみがえったことを記念するのが復活節、イースターですが、イースターの前の一週間を受難週といいます。クリスマスは毎年同じ日、12月25日と決まっていますが、イースターは年によって異なります。それは、春分の日の後の満月の次の日をイースターとしてきたためですが、今年は来週の日曜日、24日がイースターとなります。それで、今週は受難週です。

田村:なるほどね。さて、よく、キリストの十字架の死は「身代わりの死」って言われますよね。なぜ、身代わりなんでしょうか。

市川:それが今朝のテーマです。昔、こんなことを言われたことがあります。ある人がキリスト教の集会に出たんですが、その時の説教者が「キリストはあなたの身代わりに死んだのです」と言ったけれども、ピンとこなかった。第一、なぜ私のために身代わりに死んだのか、別に頼んだ覚えはないのに。勝手に死んでおいて、後であなたの身代わりだったんだと言われても、腑に落ちない、というような意味のことを言った人がいました。

田村:えーっ? 面白い反応ですね。身代わりに死んだなんて、その人にはずいぶん、おせっかいなことだったみたいですね(笑)。

市川:「身代わり」ということがピンと来なかったのでしょう。罪を犯した本人が罰を受ける、罪を償うというのなら、筋は通りますが、自分が罪を犯しておいて他人がその身代わりになるというのは筋が通らない、という思いなのでしょう。

田村:そう言われると、そういう気もしないでもない、という訳でもない、というか・・・。

市川:何です、一体?

田村:何なんでしょう。

市川:ありゃっ。

田村:すみません。

市川:身代わりの死ということを、少し分かりやすく喩えましょう。

田村:お願いします。

市川:私が真理子さんから100万円借りたとしましょう。

田村:貸しませんよ。

市川:いや、喩えですから。

田村:じゃ、1億円にしましょう。

市川:はいはい。しかし、期限が過ぎても返せないとしたらどうしますか。

田村:嫌ですよ、絶対返してくださいよ。ちゃんと返してもらうまでは、ここを動きませんよ。

市川:なんだか、年末の借金取りみたいだな(笑)。もし私が返さなければ、私と真理子さんの関係は最低最悪になりますね。つまり、貴女は私に対して怒り心頭というか、恨み骨髄ですよね。

田村:そりゃ、そうですよ。

市川:しかし、私に代わって、他の人が返してくれたらどうですか。しかも、その人が、返済期限以後の日数の分に相当する利息まで付けて返してくれたらどうですか。

田村:そりゃ、嬉しいわ。借りて借りて。

市川:喩えであることをお忘れなく。

田村:はい。

市川:キリスト教はよく「罪」のことを言いますね。聖書ではしばしば、罪を「負債」、借りていて返さなければならないものに喩えます。世の中ではよく「悪」を問題にしますが、聖書では漠然と「悪」というのではなく、人格的な存在としての神に対する反抗、不従順を問題にします。それを「罪」と言います。罪は当然罰が伴いますね。もし、法律を破り、犯罪を行なっても、何の罰も受けないとしたらどうですか。

田村:許せませんわ、そんなの。

市川:そうですね。私たちの人間性というか、道徳性が許さないでしょう。犯された罪に釣り合う刑罰が必ず伴います。

田村:当然ですよね。

市川:それと同じように、神に対する罪は当然、処罰されなければなりません。神は無限の方、絶対的な存在ですから、神に対する罪は、人間の目にはどんなに小さな、些細なことでも、神に対しては無限に大きいのです。聖書はそれを神に対する負債と表現します。神に返さなければならない訳です。しかし、人間自身に返すことはできません。もし私たちが神の刑罰を受けて死ぬとすれば、それまでです。私たちは自分の罪のために死ぬだけです。しかし、キリストは、罪がなかったにもかかわらず、神の裁きを受けて死んでくださいました。それは、キリストに罪があって、そのために死なれたのではなく、死ぬ必要がないのに、私たちの罪を引き受けて、代わりに死んでくださったのです。私たちが神に返さなければならないのに、返せなかったものを、キリストが私たちにかわって返してくださり、神はそれで満足された訳です。

田村:それで、キリストは身代わりに死んでくださったんですね。

市川:そうです。人身御供(ひとみごくう)って、聞いたことあるでしょう。

田村:神が怒っていて、それを宥めるために人を犠牲にして捧げることですか。

市川:そうです。よく未婚の女性がその犠牲になったという昔話はどこにでもありますね。

田村:その悪い神を退治してみたらヒヒだったとか、そういう話、よくありますね。

市川:はい。この人身御供は結局「身代わり」の思想ですね。ですから、身代わりは何もキリスト教だけではないのです。

田村:そうですね。でも、キリストも人身御供だったのですか。

市川:身代わりになって神をなだめたという点では、そうですね。でも、決定的に異なることがあります。

田村:それは何ですか。

市川:人身御供の場合、怒るのは神、なだめるのは人間です。しかし、聖書の場合、確かに怒るのは神、宥めるのはキリストですが、このキリストは神の子にして真の人間です。ですから、人間キリストが神を宥めた点で人身御供と似ていますが、しかし、キリストが人間になったこと自体が、神の恵み深い行為です。神が人間になったのです。ですから、怒る神を宥めたのは、自ら人間となった神ご自身なのです。

田村:なるほどね。人間が自分の力で怒る神を宥めたのではなく、神が人間にできないことを、神の御子キリストにさせられたという訳ですね。

市川:そのとおりです。

田村:他に違いがありますか。

市川:人身御供の話しは、毎年人を犠牲にするというものが多いようです。つまり、怒る神を宥める人間の犠牲の効力は永続しないということです。しかし、キリストはただ一回、十字架にご自身を捧げて、人間の罪に対する神の怒りを永遠に宥められました。キリストに罪がなかったからです。

田村:神は人間の罪に対して怒っても、人間がそれを完全に宥めることができないときに、自らそれをなさった訳ですね。これって、本当に罪人に対するすごい愛なんですね。

市川:そのとおりです。

田村:今、思ったのですが、「身代わり」ということ自体は宗教的なことに限らず、結構たくさんありますね。例えば、子供が病気になって苦しんでいる場合、代われるものなら代わってやりたいというのは親の人情というか、愛情ですよね。

市川:そうですね。適切な例ですね。他にありますか。

田村:野球のピンチヒッターとか、ピンチランナーなんかも、一種の身代わりですね。

市川:面白いことを思いつきましたね。身代わりは一面で「代表」という意味を持ちます。

田村:そうですか。

市川:キリストは罪人の身代わりに神のさばきを受けられたと言うことができますが、別の言い方をすれば、キリストは罪人の「代表」として神に裁かれた、だから、もう他の人が裁かれなくてもいいということです。代表者の行為はその人が代表しているグループ全体の行為とみられ、代表者の行為の結果はグループ全体に影響を及ぼします。代表が名誉なことをすれば、そのグループの名誉になりますし、代表の恥はそのグループの恥となります。

田村:何かいい例はありませんか。

市川:そうですね。例えば、オリンピックとかワールド・カップなんかで、日本人選手が活躍すれば嬉しいですが、金メダルを取れば、自分たちが取ったかのように大騒ぎしますが、負けてばかりだったら、がっかりしますよね。やはり彼らは日本の代表だからです。

田村:キリストが私たちの代表となって、私たちの罪のために神の裁きを受けてくださったのですね。

市川:そうです。このように、キリストの身代わり・代表は、私たち人間が自分でできなかった罪からの救い、神の裁きからの救いを実現したキリストの愛、キリストを与えてくださった神の愛なのです。

田村:はい、よく分かりました。ラジオをお聞きのあなたは如何でしたか。キリストはあなたあの身代わりとなって、あなたや私の代表となって、私たちの罪に対する神の裁きを受けてくださいました。あなたと私の罪が赦されるためです。来週も、市川牧師の<信仰直言コーナー>をお送りします。

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