聖書の世界とハリー・ポッター

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聖書の言葉

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章18節

中山仰によるメッセージ

『ハリー・ポッター』という作品をご存じの方も多いと思います。映画にもなって人気がある理由は、私たちの中に魔法を使ってみたいという願望があるからだと思います。

今日は、ハリー・ポッターの背景に聖書がどれだけ密接に重なっているかということを知っていただいて、さらに興味を持って欲しいと願ってお話をします。

主人公のハリー・ポッターは人間の母親と魔法使いの父親の間に生まれた子どもです。魔法使いたちは人間に悪さをすることを禁じられています。むしろ人間を守るために戦っていることが分かります。

その立場は、まるで天使のようです。誤って人間に魔法を使えば、魔法省から罰せられます。そして魔法をかけられた人間には、そのことが記憶されないような処置が施されるという具合です。ところが堕落し魔法界だけでなく人間世界をも支配しようと企む悪の親玉が敵として大きく立ちはだかります。彼こそ、その名前を口に出すことも恐ろしい「言ってはならないあの人」という言い方で呼ばれてる人物です。

ハリーは、両親が悪の親玉に殺されてしまったため、人間である叔父さんの家に預けられますが、叔母さんから邪魔者扱いされ、従兄弟にいつもいじめられます。自分の家系に魔法使いがいることを不名誉に思うからです。またハリーは、魔法使いということで不気味に思われ、疎外されています。その辺については、人間のいじめや差別が浮き彫りにされてきます。

ハリー・ポッターの世界において、魔法使いは死ぬことがありません。唯一の例外は、悪の親玉から命を吸い取られたときだけです。死にかけた経験を持った人の話しでは、その時魂を吸い取られながら、全く絶望的になって行くそうです。まるで永遠の滅びのようです。

ハリーの両親が悪魔の親玉に殺されるとき、その場にいたハリーも当然命を奪われそうになります。ハリーに手がかけられた時、死に行く母親から何らかの特別な力が発出し、その魔の手から守られます。その時にハリーの額には永遠に消えることのない稲妻型の傷が額に刻まれます。その額の傷の故に、友だちや周りに関わる人たちが英雄として受け入れるか、徹底的に疎んじるかに分かれます。まるでイエス・キリストの十字架の御傷を巡って、自分の救いとして受け入れるか否定するかの分かれ目となるように思われます。

悪玉とその手下たちの勢力がいろいろと画策し、ハリーたちを取り巻く仲間との戦いがいろいろな形で繰り広げられます。悪玉の世界支配の野望の前に、ハリーは絶対に排除されなければならない邪魔者なのです。

そんなことを知らない魔法学校では、彼だけ特別扱いするようなことをしないで、魔法の正しい使い方を教え、悪と戦えるように教育します。またその力は人間を助け守ることに用いられなければなりません。魔法学校の教官の中にも敵の放った人物がいますが、校長のランブルドアはハリーの父親の友人として、父親代わりとなってくれます。校長の立場で平等に生徒たちを扱いながら、ハリーを常に支え、助け、知恵と勇気を与え続けてくれます。ハリーの周りには、命にかけても守りたい親友が与えられます。特に親しい2人の友人とは、常に3人で勉強したり、ケンカしながらも、助け合い、敵と戦い、困難を切り開きながら成長して行きます。危険を共に経験する度に、彼らの友情は深まっていきます。

私たちのハリーは、私たちと全く同じように生活して、友だちと学業に励み、失敗をしながら仲良く暮らして成長して行きます。やがて戦わざるをえない敵の前に出る時まで・・・。

何回か戦ううちに、ハリーは悪の親玉を滅ぼす能力を秘めていることが分かってきます。そのため、悪魔たちからいつも狙われ続けます。ハリーの額の傷がうずくとき、何回かの経験で、悪玉が側にいることが分かったのです。

ある日ハリー少年が悪玉から追い詰めれて絶体絶命の瞬間、悪玉から死に至る力が発せられると、ハリーの額の傷が反発して、逆に悪玉がダメージを受けてしまいます。それによって、悪玉と同じくらいの力がハリーには備えられていることが分かります。

そんな中、父親代わりとなってハリーを見守り支えて来てくれた校長が、ハリーに一人では闘っていけないと忠告しますが、抑えきれず、悪との戦いに出たとき、彼を助けるために校長は回復できない深手を負います。校長は重体の身で、ある決意を込めて最後の戦いに出て行って、命を失うことになります。結末は直接この本をお読みください。

ここには聖書の背景が色濃く反映されていると私には思えてなりません。生きている神は、私たちを救うために愛する独り子であるイエス・キリストを差し向けてくださいました。神であるこのお方は、私たちを救うために処女マリアから生まれて人となられました。

私たちは神の思いと関係なく、自分だけで生きていると思っているのではないでしょうか。そのような神を無視した考えや、神から離れた行いは、悪魔に捕らえられかねません。

それらから救われるためには、神であり人であるイエス・キリストを信じるほかありません。神の御子であるイエスさまが死なれ、それも十字架により、私たちの罪の身代わりになるという信じられない方法が採られました。それによって私たちの命が完全に贖われ、はじめて真に生きるものとされました。そのためには神の子が死ななければならないという、不思議な出来事が生じているのです。これは恵みとして受け入れることしかできないのはないでしょうか。

まさに十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

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