真に生きる自由と喜び

キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章8節

中山仰によるメッセージ

今日は、私の好きな絵本の世界を通して、聖書のお話をさせていただきます。

佐野洋子さんの『百万回生きたねこ』(講談社)は、日本の絵本の中では有名な絵本です。子どもたちに人気がありますが、大人が読んでも面白く、「生きる」ことについて何かを考えさせられます。

主人公の猫は、いろいろな飼い主に飼われながら、人間になつくどころか、人間など大嫌いな猫が、百万回死んで百万回生き返ります。その度に違う飼い主に愛されながら、一度も人間などにあまえたことのない猫です。自由な野良猫の身分になってから、周りの猫仲間に自分は「百万回も死んで、百万回も生きた」と自慢していました。

しかしある時に一匹の白いめす猫に恋をします。彼女の気を引くために、「俺なんかそれまでサーカスで飼われていて空中転回もできるんだ」と自慢しますが、「そう」と言ったきり、別に興味を示しません。「君はまだ一回も死んで生き返っていないじゃないか」と偉そうに言っても特別な反応はしません。

遂にその猫は白い猫に、「そばにいていいかい」と頼んで一緒になります。それからは一切の自慢話しをしなくなりました。彼らに子どもたちが生まれ、それぞれ成長して親元から巣立って出て行きます。二匹は幸せに暮らしましたが、やがてめす猫が死んだため、その猫は大泣きに泣いて、ある日ついに動かなくなり死にました。そして二度と生き返らなかったというのです。

最初に申し上げましたように、この絵本がロングセラーを続けているのは、いろいろなことを考えさせられるからだと思います。私なりに思うところを今日はお話させていただきます。

この猫は、百万回も生き返って幸せだったのでしょうか。その猫が本当の幸せを手に入れたとき、もう二度と生き返らなくてよかったのではないかと、私には思えてなりません。みなさんはいかがでしょうか。

百万回も死ぬ度に、百万回も生き帰った猫です。その猫が愛する妻と知り合って、平凡な所帯を持ち、子どもたちを育て、平凡な生活を送って、妻に死に別れ、そして後を追うようにして死んだのです。そして、二度と生き返らなかったということは、普通の猫ならばなんでもないのですが、百万回も生き返った猫ですから、なぜ今回だけは生き返らなかったのかという思いが、一人一人の心に何らかの形で心に残るではないでしょうか。そして大人にとっては、生きるということ何かという厳しい現実を突きつけられる絵本ではないかと思います。

私が想像するのには、主人公の猫は、本当の自由を得たからだと思います。それまでは、すべての飼い主から愛されていました。どんなに愛情を向けられても、猫は人間なんか大嫌いでした。自分がはじめて心から愛した相手と一緒になることによって、初めて本当に生きる喜びを知ったのだと思います。そして、愛する人を失った時に、もう二度と生き返る必要はなかったのです。生き返りたくもなかったと思います。

ここに真の自由の喜びを感じます。自由は、自由でも喜びのない自由は本物ではありませんし、喜びのない自由というなら、自由という言葉自体、矛盾だと思います。

キリスト教会では毎週礼拝があります。遠い昔、幼なじみたちが遊んでいるところを通って私が教会学校へ行くときに、見送りながら「熱心なものよ」と半ばあきれた顔を見送られていたことを思い出しました。

信仰を持たせていただいて感謝していることは、自由を実感しているからです。本当の「自由の喜び」を教えられたからです。信仰がただ苦しく我慢しているだけなら、どんなにつまらない人生となるでしょうか。

礼拝は、教会が強制して招いているのではありません。生きている神とお会いできるところですから、一週間学んだり働いたりしていても出席するのです。それは喜びだからです。

神はその独り子さえ惜しまずにこの私のためにお送りくださり、御子イエス・キリストをこの私の罪のために身代わりとして十字架につけてくださったのです。それによって、私は完全に罪を赦されていることを聖書が約束してくれています。どうして、喜ばずにおれるでしょうか。誰が押しとどめても、日曜日には礼拝に集って、この主とお会いしたいのです。

このキリストの十字架の買い取り(十字架によるあがない)によって、古い私の罪は赦されました。ですから、今生きているのは、キリストによって生かされています。

罪が解決されていない人生ならば、何度やり直しても同じ悪をくり返すに違いないことは、自分の内面を見てよく分かります。しかし、イエスさまを私の命の救い主、キリストと知ったときに、私の人生はもはやこの方の命に生きるのですから、罪のまま生きつづける必要はありません。このことが私たちキリスト者にとっての最大の感謝ですし、最大の自由であり喜びです。

関連する番組