天に希望を持つ

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聖書の言葉

それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して知りました。

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 1章5節

弓矢健児によるメッセージ

「希望」と言う言葉を、みなさんご存じだと思います。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、希望があれば、それに耐えることができます。希望は、わたしたちの心に勇気を与えます。生きる力を与えます。ですから、人間にとって希望はなくてはならないものです。わたしたちは希望がなければ生きることはできません。本日の聖書の中にも「希望」という言葉が出てきます。

しかし、それならば、あなたは一体何に希望を置いていますか。第一志望の学校に入ることでしょうか。それとも大きな会社に就職することでしょうか。事業を起こして自分の会社を持つこと、会社を大きくすること、海外で暮らすこと、豊かな老後を過ごすこと・・・。この世界にはたくさんの希望があります。そして、人間はだれもがその希望に夢を託します。もちろん、わたしたちがそのような希望や夢を持つことは、決して悪いことではありません。けれども、この世界では誰もがそうした希望をかなえられるとは限りません。いやむしろかなえられないことの方が多いのです。それどころか、すべての希望を奪われて、絶望に追いやられてしまうこともあります。

日本では今、13年間連続で毎年3万人以上の方々が自殺によって自ら命を断っています。本当に悲しい出来事です。心が痛みます。経済大国と言われながらも、実は人々の心から希望が失われ、絶望が広がっています。しかし、その方たちも最初から絶望していたわけではありません。最初から自殺したいと思っていたわけではないのです。彼らもまた様々な希望を抱いていたはずです。しかし社会の様々な現実の中で、希望を奪われ、夢を断たれ、絶望へと追いやられてしまったのです。そこには貧困や格差、人間関係の希薄化など、経済や社会の問題も深く関わっています。ですから、自殺をした方々だけが、特別に弱かったというのではないのです。実は、わたしたちは誰もがそういう絶望と隣り合わせに生きているのです。

当たり前のことですが、この世は決して永遠ではありません。絶えず、移り変わって行きます。ですから、もし、わたしたちが自分の希望を、この世にのみ置いているならば、それは非常に危ういことです。この世の希望は、いつ希望から絶望に変わるか分かりません。しかし、だからこそ聖書は、移り変わるこの世に希望を置くのではなく、天にある希望をあなたの希望とするようにと教えているのです。

先程朗読したコロサイの信徒への手紙1章5節でパウロは、「あなたがたのために天に蓄えられている希望」と、語っています。天にこそ、わたしたちの本当の希望が、決して失われることのない永遠の希望があるのです。

天とは神のおられる場所を意味します。決して滅ぶことのない永遠の神がおられる場所、それが天です。つまり、天に蓄えられている希望とは、神が与えてくださる希望、神が約束してくださっている希望のことです。それはわたしたち人間の願望ではありません。神の真実の約束、それが天に蓄えられている希望です。

しかし、どうしたら、わたしたちはその希望を知ることができるのでしょうか。どうしたら、その希望に与ることができるのでしょうか。パウロは本日の聖書の箇所で、「あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して知りました。」と語っています。つまり、わたしたちは聖書にある神の言葉、すなわち「福音」を通して、神が約束しておられる希望を知ることができる、それに与ることができるのです。

福音には、素晴らしい神の約束が満ちあふれています。福音には素晴らしい天の希望が満ちあふれています。その中でも一番の希望は、イエス・キリストを信じることによって、わたしたちに与えられる永遠の命の希望です。神はこの希望をわたしたち人間に与えるために、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。この希望の中で、あなたを生かすために、福音を与えてくださっているのです。

わたしたちがこの世のことに希望を持つこと自体が間違っているのではありません。しかし、わたしたちにとって何よりも大切なことは、神が約束しておられる希望、天の希望を持つことです。この希望があるから、わたしたちはどんな苦難の時も、勇気を持ってこの世を生きることができるのです。

どうか、あなたも聖書の言葉を通して、この天の希望を、あなたの希望としてください。

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