キリストの力がわたしの内に宿るように

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聖書の言葉

すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章9~10節

唐見敏徳によるメッセージ

いかがお過ごしですか。忠海教会の唐見です。

アドベントの四番目の日曜日、すなわちクリスマス前の日曜日である来週の日曜日、ほとんどの教会でクリスマス礼拝が行われるだろうと思います。わたしが牧師として奉職している忠海教会もそうなのですが、おそらく午前中の礼拝でクリスマスのメッセージを聴き、礼拝後にクリスマス愛餐会を行うというのが一般的な教会のクリスマスでしょう。

それに先立つ今日12月12日午後、広島市内のとある教会でささやかなクリスマスの集いが開かれます。主催は広島障害者キリスト伝道会で、略して広障伝と呼ばれます。その名の通り、広島在住の障がいを持つクリスチャンの団体で、わたしも微力ながら活動に携わっています。例年8月に行われる夏期修養会、9月に行われる障害者と教会問題を考える集い、そして今日行われるクリスマス集会がこの会の主な活動です。今回のクリスマス会では、開会礼拝の後、弦楽四重奏によるミニコンサート、そして交わりの時間を予定しています。広島在住でご興味のある方は、障がいの有無にかかわらず、是非お越しください。場所は広島市中区鶴見町にある日本福音ルーテル教会、時間は午後3時から5時30分です。

さて、広障伝の活動も含めて、忠海教会に招聘されたわたしは通常の教会の牧師より障がいを持つ方々と接する機会が多い牧師だと思います。忠海教会の礼拝に来られる方々の約半分は障がいを持っています。また教会のすぐそばに、忠海教会の先々代の牧師井原牧生先生が開設した、障がいを持つ方々の就労と生活の支援サービスを提供する聖恵会という社会福祉法人があるのですが、わたしはそこでチャプレンとして働いてもいます。というわけで、教会と聖恵会のいずれかで、ほぼ毎日、障がいを持つ方々と接する生活を送っています。

このように障がいを持つ方々と接する機会が多く与えられているのには理由があります。それは、教会の先々代の牧師井原牧生先生が筋ジストロフィーを患う重度の身体障がい者であったこと、そのために教会に障がいを持つ方々が多くこられたこと、そして、障がいを持つ方々のための伝道と愛の業の実践を教会のミッションとしてきたからです。今回ご一緒に覚えたい聖書の言葉は、障害を持つ方々との関わりの中で忠海教会と聖恵会が大切にしている御言葉なのです。もう一度お読みします。

すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

この言葉は、パウロに与えられた「ひとつのとげ」が取り除かれるよう神に三度願った末に、神から示されたものだと、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で彼は記しています。パウロの語る「ひとつのとげ」が一体何であったのか、はっきりしません。先天的な理由によるものか、後天的な理由によるものかもわかりません。ただ、彼は死んでしまってもおかしくないほどの苦難を度々経験していますので、彼の肉体に何らかの障がいが発生したとしてもまったく不思議ではありません。

パウロに与えられたとげは抜かれませんでしたが、しかしパウロはそのことを通して神の豊かな恵みに気づきます。そしてどのような状態に置かれても満足して生きることができるようになったといいます。キリストを宣べ伝える上で誰よりも偉大な働きをした人物が、「ひとつのとげ」が抜かれないまま弱さとともに生きた、「小さい」を意味する名前のパウロであったことは非常に興味深い事実です。なぜそのようなことが可能なのでしょうか。どうして弱さが強さになるのでしょうか。

ここに主イエスを信じる信仰の神秘があります。パウロのように与えられた「とげ」を受け入れ、すべてを主イエスに委ねるとき、信仰者の内にキリストの力が宿ります。それぞれに与えられている「とげ」はさまざまなかたちをとります。忠海教会には身体の傷がいという「とげ」を与えられた方々が多いのですが、重要なのは、その「とげ」がどのようなものであれ、キリストの力こそが「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」揺らぐことのない満足をもたらしてくれるということです。この満足は、わたしたち自身の努力では決して得ることができない種類のものです。

誤解しがちなことですが、そもそも人間の持つ「弱さ」は決して悪でもなく、また人間の「強さ」が善と同じというわけでもありません。わたしたちの人生の中で、「弱さ」がプラスに働くこともあり、「強さ」がマイナスに働くこともあります。大切なことは、それぞれの内に、キリストの力が宿り、発揮されているかということです。人間の知識と知恵をはるかに超えたキリストの力の前では、それが身体的なものであれ、精神的なものであれ、人間の「弱さ」「強さ」の違いは全く無意味なのです。

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