イエスに触れた女性の癒し

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聖書の言葉

ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

新約聖書 ルカによる福音書 8章43~48節

袴田清子によるメッセージ

今日ラジオの向こうの皆様と分かち合いたい箇所には、12年も血の流出を煩っていた女性が現れます。この女性はこの病を治すために医者に全財産を使い果たしましたが、誰からも治してもらうことが出来ない状態にいました。

当時のユダヤの社会では、このように女性が出血している状態は宗教的に汚れたこととされていました。汚れているので出血している間とその後の一定の期間は、身を清めるために他の人と接触することが禁じられていました。この出血による宗教的な汚れの故に、12年間もの間、彼女はいかなる宗教行事にも参加することが許されず、神殿に入ることももちろん出来ませんでした。12年間も続けば、そのうち病を治そうとする気力も失せ、そのうえ町の人たちから偏見で見られるようになったことでしょう。12年間もの長い年月の間、耐え続け、懸命に頑張り続けて来たけれど、今度は財産を全て使い果たし、もう望みも全くなくなってしまった。そのような状況にこの女性は居たのです。

ところが彼女は、イエス様が来られると聞いて、立ち上がり出掛けました。彼女は汚れていたので、本来、多くの人に接触する群衆の中になど紛れ込んでいてはいけない者でした。しかし「この方なら癒して頂ける」との思いに動かされて、群衆の中に紛れ込みました。そして押し合う人々をかき分け、イエス様に近づきました。後ろからイエス様の服の房に触れたのです。女性は、イエス様に向って手を伸ばしました。苦しさに耐えられず、悲しみと絶望の中、力尽きた手を、イエス様にただ伸ばしました。

すると「直ちに出血がとまった」のです。それに気づいたイエス様は「わたしに触れたのはだれか」とその人を探されました。弟子のペトロは「群衆が取り巻いていて、押し合っているのです、誰が触ったかなどと言われましたも、人が多すぎます」と言わんばかりでした。しかしイエス様は「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」とその女性を探されます。

この12年間の苦闘の中を生きてきた病弱な女性の、絶望からの一触れは、大群衆が押し迫る力よりも強く、イエス様の力を引き出してしまったのです。

この女性にはイエス様の癒された事実は、驚くべき出来事でした。さらにイエス様が、「私に触れたのはだれか」と自分を探されることは、恐ろしいことでした。それまで、人々の前に出たことの無い、人目を避けて生きていた女性でした。恐らくひっそりと隠れたままで居たかった、ひっそりと触って癒されるだけでよかったのです。しかし今、逃げられない状態になってしまった。とんでも無いことをしてしまったと、恐れに取り付かれていました。女性は「隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒された次第とを皆の前で話し」ました。震えながら話す彼女に、イエス様は言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

この女性の信仰は迷信とも言いうるような信仰でした。か弱く、ただイエス様にすがるような信仰でした。しかし、イエス様はそれを御自身に対する信仰として受け止め、イエス様の恵みを受けるに十分なものとして認めてくださったのです。

もし、この癒しがイエス様によって、人々の前に公にされなかったなら、この女性は町の人々から与えられてきた偏見を自分で取り除くことは出来なかったかもしれません。しかし、イエス様はこの女性が負ってきた偏見も、事実を公にすることで、完全に取り除いて下さったのです。

そして、病が癒されるということだけではなく、イエス様が、この女性を探し出された事により、彼女は個人的に、人格的に救い主イエス様に出会うことが出来たのです。病は癒されても、人は誰もがいつか死の時を迎えます。しかし、救い主であるイエス様は私たちと人格的に出会ってくださいます。そして、御自身がお与えになることの出来る、永遠の命の恵み、神の赦しの恵み、神の救いの恵みに入れられるという、もっと優れた高い目標へと、力強く、導いて行かれるのです。

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イザヤ書の御言葉です。このイザヤ書の預言をイエス様は、御自分に当てはめておられます。そして、正しくこの女性の癒しこそ、神の御子であるイエス様によってもたらされる、解放、自由、そして恵みの年の宣言を表す奇跡でした。神の御子イエス様が人となって地上を歩まれた時、正しくこの預言のような奇跡が数多く起こったのです。

このイエス様は、この地上での歩みの最後に十字架に掛かって死なれます。聖書には、神の御子イエス様は、私たちの病を負い、苦しみを知っておられると書かれています。そして、このお方が十字架に掛かって、刺し貫かれたのは、私達の罪のためであったと書かれています。

私たちにも、今日お話しました女性のように、隠しておきたい、誰にも触れられたくない問題や心の傷、あるいは病があるかも知れません。しかし、この女性のように最後まで希望を捨てず、イエス様のところに行きましょう。疲れ果てた手をイエス様に差し出しせば良いのです。イエス様はそれを信仰と受け留め、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と語ってくださいます。救い主であるイエス様はその苦しみを知り、あなたに、もっと優れたもの、永遠の命の恵み、神の赦しの恵み、救いの恵みに導いてくださいます。

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