信仰直言「絶望と諦めからの解放(2)」

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聖書の言葉

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旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:おはようございます。田村真理子です。ラジオをお聞きの皆様、今朝のお目覚め、如何でしょうか。今週も先週に続いて、市川康則牧師の「信仰直言コーナー」です!市川先生、お早うございます。今日も宜しくお願いいたします。

市川:おはようございます。宜しくお願いします。

田村:今日は先週のお話しの続きですね。

市川:はい、そうです。

田村:とにかく死ぬのが怖い。しかし、いずれは死ぬと感じている。どうせ死ぬのに、何で勉強したり、いろんな努力をするのか、無駄なことなのに・・・というような少年時代だったとか。

市川:はい、よくまとめてくださいました。

田村:問題は、ここからですね。その後、どのようして今のようになったのか、それをお聞かせください。

市川:はい。今のようになったと言っても、決して立派になったわけでもなく、勉強ができるようになった訳でもありません。ただ、一つの大きな変化が生まれました。

田村:それは、何でしょう。

市川:はい、実は、死の恐怖がなくなったんです!

田村:えーっ!どうしてなんですか。また、いきなり。

市川:いや、いきなりとか突然ではありません。

田村:何かきっかけがあったのですか。

市川:ハイ。大学に入ったときにあるクラブに入ったのですが、それはキリスト教とは関係ない普通のクラブでしたが、一人の先輩が、キリスト教の宣教師が開いている集会を紹介してくれ、そこに連れて行ってくれました。その集会は週に1回開かれていましたが、毎日、聖書を読むように勧められました。福音書から順に読みましたから、イエス・キリストと登場人物の問答が記されているのが当然目に止まり、キリストの言葉が私にはとても新鮮に、あるいは斬新に聞こえました。

田村:へーっ、そうなんですか。

市川:勿論、聖書の深い意味、あるいは正確な意味は知るよしもありません。ただ文字通り、表面的に読んでいただけです。でも、言葉自体が私にはとても不思議で、しかも励みになるように思えました。最初の福音書はマタイですが、11章28節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とありますが、この言葉によってホットしました。今までこの類いの言葉をかけてくれた人はだれもいませんでした。死の恐怖にさいなまれると、心は疲れ、思いは苦しくなります。しかし、だからといって、自殺はできません。死が怖いからです。進退窮まった状態です。そういうときに、キリストの言葉は本当に慰めと励ましでした。それから、聖書にはひょっとして何か希望があるかもしれないぞと思い始めました半分駄目元の気持ちもありましたが、とにかく読み進めようと思いました。

田村:それから聖書を読み続けられたんですね。

市川:ハイ、福音書の最後はヨハネですね。11章25節、26節に「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とあります。これだ、これだと思いました。

田村:よかったですね!

市川:勿論、本当の意味は分かりません。死んでも生きるって、矛盾ですよね、表現上は。でも、こういう言葉が大事なんです、私には。それから聖書を読み進めました。勿論、その間にキリスト教の集会に行き、宣教師や先輩クリスチャンたちと聖書の勉強を、キリスト教の教えというか、思想を学びました。そうする内に、根本的に大事なことを発見しました。というより、教えていただきました。

田村:何でしょう、それは。

市川:死の恐怖から解放されるためには、死よりももっと大きな存在、もっと怖い存在、しかし、いつかは死ぬそんな人間をも愛してくれる存在、こういう存在が必要であるということです。

田村:ふーん、死よりも大きく、怖い存在ですか。それって、神様ですか。

市川:そのとおりです。でも、世の中の人々も神とか神々とか言いますよね。キリスト教だけではありませんね。しかし、聖書の教える神は、一人の神で天地の創造者です。全世界と人間とを文字通り無より創造した神で、決して、人間や自然世界の延長線上にある神ではありません。そういう神は、人間や自然世界の避けられない運命である死に対しては何の力もないのです。人を死から救ってくれることはできません。そういう神や神々にとっても、死は不思議な存在というか、現象です。しかし、聖書の教えの中では、死は神を離れてそれ自体で存在する、あるいは起こる事柄ではありません。

田村:なるほど、死を絶対的なものではなく、相対化するもの、それ神様ということなんですね。

市川:そのとおりです。普通、死は絶対的ですね。どんな権力者でも、巨万の富を持っていても、大学者でも、格闘技家でも、死に対してはまったく無力です。

田村:そうですね。

市川:聖書は、人は神に対して罪を犯しており、その罪に対する神の刑罰が死であると教えます。私の死の恐怖は、罪人である私への神の怒りなんですね。ですから、神様との関係、神様に向かう私の姿勢が変化しなければならないことを教えられました。

田村:神様との関係の変化ですか。

市川:そうです。聖書の神は聖なる神ですから、罪に対しては怒りを発せられます。人間社会でも悪いことをすれば当然罰せられますね。これは、神の道徳性の現われなんです。しかし、同時に神は人間を愛し生かそうとしてくださいます。罪を罰しながら、人を罪と死から救い出し生かせるために、キリストを罪人の代表として、また身代わりに十字架に罰せられました。そして、キリストは私を生かすため、死から甦ってくださいました。私は大学1年生のときにキリストを救い主と信じて、心と生涯に受け入れました。不思議なことに―聖書の基準では当然なのですが―それから後は死の恐怖に駆られたりさいなまれたりしたことは一度もありません。

田村:へーっ、そうなんですか。

市川:はい。勿論、死にたいなどとは思いませんが、死んだらどうなるのだろう、「わたし」であるという意識や感覚があるのだろうか、死は永遠の瞬間なんだろうか、瞬間が永遠に続くとはどういうことなんだろう・・・こういう苦悩から完全に解放されました。今では、体が死んだ後も、心は生き続け、「わたし」であるという意識ないし感覚はもっと充実してあり、しかも、罪から完全に解放され、やがて体も甦るという希望に生かされています。

田村:死の恐怖から解放されることほど素晴らしいことはありませんね。

市川:そうです。死の恐怖から解放される、絶望と諦めからも解放されます。私は、この結果思わぬことを経験しました。

田村:何ですか、それは。

市川:勉強嫌いで勉強できなかった私が、何と勉強することは意味があると分かり始めたということです。

田村:えーっ、勉強ができるようになったのですか。それは良かったですね。

市川:いや、いや、勉強できるようになった訳ではありません。長い間勉強しなかったんですから、すぐできるようになる訳がありません。

田村:それもそうですね。

市川:これは、すぐ認めるんですね。ただ、勉強することにはそれなりの意味あるいは価値があるということを知り始めた訳です。勉強というのは、神様が造られたこの世界―そこには自然世界もあれば、人間社会もある―そういう世界のいろいろの部分を合理的に理解することなんだということですね。神様の作品をいろいろの角度から眺めて、それを味わう―これが勉強、大げさに言えば学問なんですね。

田村:なるほどね。そういうふうに考えると、勉強も少し親しみがわくというか、身近に感じられますね。

市川:受験のためとか、人との競争のためということが目的になると、勉強は辛いし、つまらないですね。

田村:そうですよね。

市川:私は本当に勉強嫌いでしたが―今も好きではありませんが、正直言って―でも、これは私が人間として、キリスト者として成長していくためには必要なんだと確信しています。神様は公平な方で、若い内にしなかったことを、今させておられます。

田村:先生は今神学校の校長先生なんですね。

市川:はい。前に「信仰直言」のコーナーを担当させていただいていたときは、そうではありませんでしたが、今は、実はそうなんです。もし母が生きていたらた、たまげていたでしょうね。「ズボラというのはお前のためにあるような言葉だ」と言った訳ですからね。あんな勉強できなかった人間が、今、神学校の校長をしている、あり得ん!でも、神様は不可能を可能になさる方なのですね。天地を創造した方、イエス・キリストを死から甦らされた方ですから。

田村:うーん、本当に神様はすごいですね。

市川:私は大学では言語学の専攻、つまり文科系でしたが、時間の許す限り、社会科学や自然科学の科目も取りました。同じ授業料を払っているのだから、ちょっとでも多く取らないと損だ、なんていうことではありません。

田村:やはり、神様の作品を少しでも味わいたいという関心からでしょう。

市川:ピンポーン。さて、最後に一つ訴えます。

田村:何でしょう

市川:人は人との交わりで生きていくものですから、他から見放されたら生きて行けませんよね。

田村:はい、勿論。

市川:親から見放される、友達から見放される、先生から見放される・・・そうなれば、悲惨です。しかし、もっと悲惨なことがあります!

田村:何でしょうか。

市川:神に見放されることです!

田村:えーっ!

市川:死の恐怖に駆られたら、その先はどうにもならない。死ぬのが怖いから自殺はできない。しかし、いずれ必ず死ぬ。避けられない、どこにも逃げていく所はない。どんなに立派な親でも、親しい友達でも、偉い先生でも、死からかくまってくれることはできない。それができるのは、神様だけです。人に見放されることは勿論辛い。しかし、まだ、耐えられる。神に見放されたら、本当に悲劇です、しかし、神様は私たちを、ラジオをお聞きの皆様お一人お一人を愛しておられます。皆様の上に神様の祝福をお祈りいたします。

田村:市川先生、有り難うございました。また、宜しくお願いいたします。来月は日本キリスト改革派伊丹教会長老、城下忠司さんが担当いたします。良き1週間をお過ごしください。神様の祝福をお祈りしています。

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