信仰直言「絶望と諦めからの解放(1)」

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:お早うございます。田村真理子です。ラジオをお聞きの皆様、今朝のお目覚め、如何でしょうか。今週は何と、久しぶりに市川康則牧師の「信仰直言コーナー」です!市川先生、お早うございます。お久しぶりですね。

市川:おはようございます。本当にお久しぶりです。

田村:前回はいつだったかでしょうか。

市川:手許の記録では、2006年11月26日となっていますから、何と、4年ぶりですね。

田村:お元気でしたか、この4年間。先生の「信仰直言コーナー」がなくなって残念がっていらっしゃった方も多いんじゃないでしょうか。

市川:嬉しいことを言ってくださいますね。オーイ、オイ、オイ、オイ。泣いているんですよ。呼んでいるんじゃないですよ。

田村:確か、前にもこれが最後というときにそう言ってらっしゃいましたね。

市川:よく覚えてますね。同じことを言って、全然進歩がないですね.我ながらお恥ずかしい限りです。

田村:さて、今朝はどんなお話でしょうか。久しぶりの「直言」は?

市川:はい、今朝と来週は私の個人的な証しをさせていただきます。

田村:証ですか?証しというのは、自分が見たこと・聞いたこと・体験したことのお話しですね。

市川:そうです。実は、ある方から言われたんですが、「キリストへの時間」では、多くの場合、牧師先生の聖書からのお話しが多いけれど、それもためになるけれど、どうして信仰を持ったのか、なぜクリスチャンになったのか、キリスト教の信仰を持ってどうなったのか・・・そういうお話しもたまにはあったほうがいいと言われました。

田村:なるほど。ラジオをお聞きの方の中には、キリスト教信仰を持つきっかけとかいきさつとかを聞いたら、キリスト教がもっと身近に感じられるという方もいらっしゃるかもしれませんね。

市川:もちろん、これからお話しすることは、私自身の経験ですので、みんなに当てはまる訳ではないと思います。しかし、ラジオをお聞きの方の中には似たような経験あるいは問題をお持ちの方もおられるかも知れません。ですから、できるだけ多くの人たちの信仰体験を話しする、逆に言えば、そういうお話しを聞くことが有益だと思います。

田村:それと聖書からのお話しとをバランスよく語る・聞くということですね。

市川:そうですね。

田村:では、宜しくお願いいたします。

市川:私は小さい頃から、小学校に上がるか上がらないか、ですから5、6歳の頃から、死ぬのが非常に怖かったのです。

田村:エーッ?そんな小さな頃から?信じられないですね。

市川:多くの人にそう言われます。でも、本当なんです。別に周りで誰かが死んだ訳ではないんですが。もっとも、6年生のときに祖父が亡くなりましたが、私の死の恐怖はそれより何年も前から始まりました。

田村:へーッ、変わってたんですね、その頃から。

市川:ほっといてくれ!失礼しました。

田村:死の恐怖って、一体、死の何が怖いのでしょう。

市川:人によって違うかもしれませんが、私の場合は、死んだ後、どうなるのかという不安です。「わたし」であるという意識が、あるいは感覚があるのか、ということなんです。

田村:ないんじゃないですか、死んでるんだから。

市川:そこなんです。ないというのが恐ろしいんです。

田村:エーッ?ない、つまり自分がないんですから、痛いもかゆいも怖いも嬉しいもないんじゃないですか。

市川:自分がいない、自分という存在がない、だから自分であるという意識あるいは感覚がない―これが耐えられないのです。親に聞いたりしましたが、寝ているときと同じだと言われました。

田村:そうですよね。死ぬことをよく眠りに就くなんて言いますよね。死んだときって、やはり眠っているときのようじゃないかしら。

市川:田村さん、寝ているときって、意識あります?―わたし、今、寝ている、眠っているんだって。

田村:ありませんね。

市川:そうですね。今から寝ますと言って寝るわけではなく、何となく眠って、気が付けば目を覚ましている、その間は一瞬ですね。何時間寝ようと、目を覚ましたら、その間は瞬間ですね。横で見てたら、いつまで寝てんの、早くは起きんか!って思ったりしますが、本人は一瞬の内に目を覚ます訳ですね。

田村:そうですね。

市川:何時間寝ようと、何日間寝ようと、何年間寝ようとも、目を覚ましたらその間は一瞬です。でも―ここが肝心です―目を覚まさなかったら、どうすか。死ぬのは寝るのと似ていると言われますが、寝るのはまた起きることを前提にしていますが、死んだら、また起きることはありませんね、普通は。

田村:そりゃそうですね。また起きたら、死んだとは言いませんからね。

市川:眠っている間は、次に目を覚ませば、一瞬ですが、目を覚まさなければ、その間の時間の経過はどう感じるんでしょうか。果たして一瞬なんでしょうか。死ぬのは永遠に眠ることなら、永遠に一瞬が続くということでしょうか。永遠の長さが瞬間に感じられるんでしょうか。瞬間とは言うなればゼロですから、永遠にゼロがつづいても、それはゼロですよね。わたしという存在がなくなり、自分である意識がなくなる、それが永遠に続く、しかし、それを一瞬に感じる。存在も意識もなければ、わたし自身はそれを瞬間と感じますが、しかし、現実にはわたしの死は永遠ですから、永遠に瞬間を感じる―無限大と無とは正反対ですが、これが一つであるよう感じる・・・こんなことを考えていると、頭,おかしくなりません?

田村:なります、絶対なります!

市川:でも、これが解決しなければ、私は気が済まないんです。ですから、私は地獄でもいいからあってほしいとさえ思うようになりました。地獄は行ったことがありませんが、一般に想像を絶するような苦しみを受ける所と言われますね。それでもいいから、あったほうがいい。苦しむということは、わたしの存在がそこにあり、わたしという意識や感覚がある訳ですね。しかし地獄もない、まったく何もない、自分の存在を感じることがない、それが永遠に続く、永遠に自分という自覚がなくなる―これが私には最大の矛盾、赦せない不条理でした。

田村:へーっ。そんなことを思ってらっしゃったんですか、5、6歳の頃から

市川:そうです。わたしは子供の頃から、人間は最終的には頼りにならないという感覚が身に着いていました。勿論、人間不信に陥ったというのではありません。親とか先生とか友達とか、それは勿論大事な人たちですし、世話になっていますし、そういう人たちがいなければ生きていけません。わたしなりに感謝もし、喧嘩もし、人との関わりで生きていたつもりです。私なりに楽しいことも嬉しいこともありました。だれでもそうでしょう。でも、死んだらどうなるのか、死んでもわたしはわたしであるのか―こういうことには誰も答えてくれないのです。また馬鹿なことを考えているぐらいにしか思われませんでした。ですから、人間は私にとってもっとも大事な問題には何の力もないと、ある意味で悟っていました―これは実際、諦めです。諦める以外にはないからです。いずれ死ぬことは直感していました。

田村:どういう少年だったのでしょう。

市川:どんなに楽しいこと、嬉しいことがあっても、一旦、死んだらどうなるのかと思い始めたら、もう大変、死の恐怖に苛(さいな)まれ、他のすべてのことは吹っ飛んでしまうように思えました。

田村:そうなんですか。

市川:ですから、勉強でも運動でも友達付き合いでも何もかもどうでもよくなってくるんです。私は宿題なるものをほとんどしたことはありません。

田村:えーっ?宿題、しないんですか。

市川:はい!

田村:先生に怒られるんじゃないですか。

市川:勿論、怒られます。昔は体罰もありましたからね。叩かれたら痛いですよ。

田村:それでも、宿題しないんですか?

市川:はい。譬え叩かれても殺されはしまいと思いました。いくら体罰が当たり前でも、もし殺しでもしたら、大変なことになりますからね。殺さなくても、重傷を負わせる、後遺症が残るなどとなれば、先生もただでは済みませんから、そこまではされないだろう、ちょっと痛いのを我慢すれば、ちょっと恥ずかしいのを辛抱すればすぐ終わる、大体いつもこう思っていました。

田村:先生もやりにくかったでしょうね、こういう子供を相手にするのは。

市川:およそ、努力とか向上とかは私の辞書にない言葉でした。

田村:どうしてでしょうか、そこまで徹するとは?

市川:別に徹していたんじゃないんですね。ただ、やる気が出て来ない、力が湧いてこないだけなんです。

田村:なぜでしょうか。

市川:どうせ、死ぬんじゃないか、勉強できようが、できまいが、努力しようが、すまいが、いずれ死ぬんだ。じゃ、何のために辛い思いして努力したり、ねじり鉢巻で勉強なんかするんだろうって、思った訳です。もし勉強して死なないんだったら、物凄く勉強したでしょうね、きっと。「ズボラ」という言葉、ご存じですか。

田村:ええ。手抜きとか、いい加減とか、とにかく一生懸命しないことですよね。

市川:そうです。母によく言われました。「ズボラ」ってのは、お前のためにあるような言葉だって。

田村:そういう少年時がいつまで続いたんですか。

市川:大学にハイって始めて聖書を読む機会があるときまでですね。ですから、18、9の頃ですから、13、4年続いたことになりますね。

田村:そんなにも長い間、死の恐怖を悩まされていたんですか。

市川:はい。勿論、文字通り、1日24時間、1年365日という訳じゃありません。

田村:大学に入ったってことは、受験してでしょう。まさか、裏口ではないですよね。

市川:勿論。家(うち)にはそんなお金なかったですからね。

田村:じゃ、勉強できたんじゃないですか。

市川:いいえ。ただ、私も親に怒られるのは怖いですからね。先生は過度の体罰はしませんが、余りにも勉強しなさ過ぎて親に恥ずかしい思いをさせたりすると、ご飯抜かれたり、半殺しの目に遭うほど怒られたりしましたから、それでけは恐ろしかったですしぬことの次に。

田村:ここでも、死のほうが怖かったって訳ですね。

市川:はい。それで、とにかく半殺しの目に遭わないように、ご飯だけはもらえるように、最低限の勉強だけは、いやいやながらでしたが、とにかくやりました。

田村:そうですか。もっとお話しが聞きたいですが、時間が来ました。続きは来週のお楽しみにとっておきます。市川先生、有り難うございました。

市川:有り難うございました。中途半端なところで終わってしまって、済みません。では、また来週!

田村:来週も、市川康則牧師の「信仰直言」をお送りします。それでは、皆様、良き1週間をお過ごしくださいませ。

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