死の陰の谷を行くときも

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聖書の言葉

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

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死の陰の谷を行くときも

 わたしは災いを恐れない。

あなたがわたしと共にいてくださる。

あなたの鞭、あなたの杖

それがわたしを力づける。

旧約聖書 詩編 23編1、4節

乾 順によるメッセージ

7月上旬のことでした。一人の高齢の男性の方が、私どもの教会を訪れてこられました。用件をお聞きすると、今、奥様が重病で危篤状態であるとのこと。もしもの時はキリスト教式でお葬式をしていただけますかということでした。

この方は長年教会に行っておられ、洗礼も受けておられます。結婚してから奥様も一緒に教会に行っておられたようです。しかし最近は事情があって教会には行っておられないとのことでした。出来るならキリスト教式で奥様の葬儀をしていただきたいと真剣に願い出られました。

私は承諾をし、奥様が意識が無くても一度でもお会いしたいとお願いしました。するとすぐに奥様が入院しておられる病院に連れて行ってくださいました。病室に入ると奥様は意識もなく、酸素マスクをしておらて、お医者さんからはもう時間の問題ですと言われておられたようです。

病室には息子さんと奥様のお姉さんとがおられ、しばらくお話しをさせていただきました。辛いことですが、その後すぐご主人様と葬儀社に行って葬儀の準備をすることになりました。時間の問題ですと言われていた奥様は、それからちょうど1週間後、天に召されました。

先ほど読みしました聖書の箇所は、葬儀の時に読ませていただいたものです。この詩編23編の作者はイスラエルの二代目の王様であるダビデという人です。ダビデは少年の頃、お父さんの手伝いをして羊の世話をしていた経験があります。その経験を通して、羊飼いと羊の関係はまさに神様と自分との関係に通じるところがあると見たのです。日本の国では羊飼いの様子は滅多に見ることはできません。しかしパレスチナではどこにでも見られる日常的な事柄でした。

羊というのは弱い動物で他の獣に対しての自己防衛力を持っていません。また羊は方向音痴であり、迷いやすい動物だそうです。ですから羊飼いは羊の群の先頭に立って羊を導くのが常でした。草や水が非常に少ないパレスチナでは羊飼いが草のあるところや、水のあるところに羊を連れて行かないと、羊は生きることが出来ませんでした。

わたしたちも羊のように弱く迷いやすい人間ではないでしょうか。羊飼いは四六時中、羊たちと一緒にいて、命がけで羊の生命を守りました。4節にある「鞭(むち)」というのは、棍棒の先に鉄の金具がついた物で、羊飼いが羊を襲ってくる猛獣を追い払うために使いました。

「死の陰の谷」(4節)という言葉が出てきます。実際にパレスチナには深い谷があって猛獣がそこに潜んでいて、しばしば羊を襲ったことが伝えられています。そんなところを通るときも羊飼いが一緒にいてくれれば羊は恐れることがありません。

わたしたちの人生にも必ず「死の陰の谷」が訪れます。私たちは毎日のようにテレビや新聞で多くの人の死のニュースを知らされます。それに慣れてしまい、つい死というものを他人事のように考えてしまいます。

しかし必ず私たち一人一人も孤独な死を迎える時がやってきます。また、どれほど愛し合っていた家族も友人も自分と一緒に死の世界に行ってくれる者はいないのです。したくてもそれはできないのです。けれども、ダビデはやがて自分にも必ず訪れる死の瞬間も神様が共にいて下さるので、災いを恐れない、と告白しています。

あなたは、自分にも必ず訪れる死に対して備えをしておられるでしょうか。

新約聖書の中でイエス・キリストはこう言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10:11)イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架でわたしたちに代わって神様に呪われ、裁かれ、死なれました。私たちが神様の裁きを受けないように、むしろ永遠の命を受け、天国に行けるように救いを完成して下さいました。十字架で死んで三日目に復活されたイエスは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ福音書11:25)

イエス・キリストは十字架で死ぬ前の夜、弟子たちにこのように語られました「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:2-3)

よくお迎えが来たとか、早くお迎えが来て欲しいというようなことが言われます。いったい誰がどこへ迎えるのか何も分からないのです。しかし、イエス・キリストを救い主と信じる者にとってのお迎えは、神様の側に用意が出来たから迎えに来られるのです。

人間の目から見れば、用意のない死であったかも知れません。まだまだこれからと見えたかも知れません。あまりにも早すぎた、残念だと思うかも知れません。しかし、神様とイエス・キリストの側では用意が出来たので迎えに来て下さるのです。

今、わたしたち一人びとりがこの時にイエス・キリストを知り、誰がどこへ迎えに来て下さるのかが分かって、やがて訪れる死への備えをしようではありませんか。

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