あなたを愛し抜かれるイエス様

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章1節

金原義信によるメッセージ

今お読みした聖書の箇所は、イエス様が十字架におかかりになる直前、弟子たちと食事をなさったときの場面にさきだって記された言葉です。イエス様は食事の席から立ち上がって弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭くということをなさいました。イエス様は弟子たちをこの上なく愛し抜かれた。その愛が、足を洗うという行為で表されたのです。私たちもまた、このときの弟子たちを同じように、イエス様に愛し抜かれている、そう信じることが、イエス様を信じることになるのです。

この上なく愛しぬく、私たちは愛すべき人を、この上なく愛しぬくということがうまく出来ているでしょうか。イエス様の弟子たちはどうだったでしょうか。この時すでにイスカリオテのユダはその心に、イエス様を裏切る考えを抱いていました。他の弟子たちもイエス様が十字架にかけられたときには逃げてしまったり、またペトロは3度もイエス様を知らないといいます。イエス様はそのことを承知の上で、弟子たちを愛し抜かれたのです。

この言葉には二つの意味があります。一つは時間の上で愛し抜く、ということです。人間の力では、死んでしまえば、相手に自分の愛を伝え、向こうからも応答があってそのやりとりを楽しむことは出来なくなります。けれどもイエス様にはそれが出来るのです。イエス様に愛されるということは、この世の生涯だけで終るものではありません。世を去る時、世を去った後も、イエス様が一緒にいて下さり愛して下さるのです。もうひとつは愛の目的を成し遂げる、ということです。イエス様の愛を受け入れるなら、死と、人間の罪から来る苦しみや悲しみの涙、争いや憎しみから解放され、私たちの想像を超えた完全な神様の祝福に導かれるのです。そのために私たち人間の罪を十字架で背負い、復活して死から永遠の命へと私たちを移して下さるのです。その力が、イエス様にはあるのです。

このような愛を、弟子たちの足を洗うという行為で示されたのです。ところで、シモン・ペトロはこのイエス様の行動にとまどいを覚えました。彼は言います。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」また、こうも言います。「わたしの足など、決して洗わないで下さい」当時、ユダヤでは足を洗うというのは奴隷の仕事とされていました。ですから尊敬する先生であられるイエス様に足を洗っていただくと言う事にはとても抵抗があったのでしょう。ところがイエス様はペトロにこうおっしゃいました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。ペトロにしてみれば、目上の人に奴隷の仕事を、自分のためにさせるわけにはいかない、そう思ったのでしょう。ところがイエス様は、これを受けなければペトロはイエス様と関係がなくなってしまう、とおっしゃったのです。

ペトロはイエス様に仕えて従って来ました。だから自分がイエス様を愛してイエス様のために働く。いってみればイエス様に対する自分の愛を貫く覚悟だったのでしょう。だから、イエス様にここまでしていただくことは受けつけられなかったのでしょう。けれどもまずイエス様がペトロにお求めになったのは、イエス様に対するペトロの愛を貫くことではなくて、イエス様の愛がペトロにおいて貫かれること、これを素直に受け入れることだったのです。奴隷のようにご自分を低くして足を洗う。そうやって愛し抜いて下さるイエス様の愛を受け入れることです。自分の愛が貫かれることよりも、まずイエス様の愛が貫かれることを受け入れることでした。

外を歩けば随分足は汚れたことでしょう。それを素直にイエス様に差出し、洗い清めていただくこと。丁度そのように私たちのきれいでないもの、罪の心も、イエス様が受け止めて下さって清めて下さるというのです。ですから私たちはイエス様にかっこうつけなくても、見栄を張らなくてもよいのです。ありのままの自分をイエス様はすべてご存知の上で受け止めて下さり、イエス様が十字架と復活によって清めて下さった。愛し抜いて下さった。そう信じることなのです。イエス様はあなたを愛し抜いておられます。

関連する番組