確かな安らぎはどこに?

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聖書の言葉

初めに、神は天地を創造された。

旧約聖書 創世記 1章1節

金原義信によるメッセージ

この放送を聴いて下さってありがとうございます。この放送を通して神様の恵みが皆さんの心に届けられますようにとお祈りしています。

皆さんはふとした時に、何とも言えない寂しさや虚しさ・不安・心もとなさを感じることはないでしょうか?あるいは、この世界や、そこに生きている自分がどこから来たのか、なぜ生きているのか、なんのために生きるのか?そんなことを考えたことはないでしょうか?

このようなことを考えるのは人間だけだと思います。どんなに知能がすぐれた動物でも、人間以外にこのようなことを考える生き物は他にいないと思います。なぜなのでしょうか。そして今お話ししたような疑問にしっかりとした答えがなければ、何とも言えない不確かさを覚えるのではないでしょうか。

ですからこれは私たちの人生の土台に関わる問題なのです。私たちの人生にとって確かな土台はどこにあるのでしょうか。私たちを心の底から支えるもの、人生の土台をどこに据えておられますか、そう聞かれたら、皆さんはどうお答えになるでしょうか?

聖書を開きますと、一番最初の言葉、創世記1章1節に、先ほどお読みした言葉が出て来ます。

「初めに、神は天地を創造された。」

神が、この世界を造られたというのです。言い換えれば、この世界が存在している、その基盤は神様にある、というのです。その後読んでいきますと1章27節には、神様が人間をお造りになったことが記されます。

ですから聖書は、この世界があって、その中に私たち人間が生きているのは、神様によってなのだと言うのです。この世界があって、私たちが今ここに生きているのは、偶然の産物ではない、自然現象によっていつの間にか出来たもの、あるいは運命による、というのではないのです。神様がおられて、はっきりした意志を持ってこの世界をお造りになり、私たちを今ここに生かしておられるということなのです。

神様がこの世界をお造りになったことを記す聖書には、神様が、造られた世界を見てよしとされたと記されています。この世界は虚しい、汚れたものではなく、神様に祝福されたものだといっているのです。

さらに人間については、創世記1章27節「神にかたどって創造された」と記されています。「神にかたどって」これは人間についてだけ記されている言葉です。人間だけが特別に神様からいただいた祝福があるのです。これは人間が、神様に造られたことが分かり、神様に祝福され愛されていることを知って心を満たされて喜んで生きる者として本来造られたことを表しています。神様に愛され、神様を愛して、人間同士が愛し合って生きるものとして造られたのです。それも永遠に、です。

もしこの神様に背を向けて人間だけで生きようとすると、どうなるでしょうか。自分を造り、愛して下さる神様から離れてしまうと、心の一番深いところで自分の存在が何に基盤を置いているのか分からなくなります。だから不安になります。神様の愛を受け止めないためにいいようのない寂しさや虚しさを感じるようになってしまうのです。それが私たち人間の深い所にある魂の飢え乾きとなっているのです。自分がなぜ、何のために生きているのかという人生の土台や意味を求めて悩み、苦しむのも、そのためではないでしょうか。

けれどもそれはまた同時に、神様に造られ、本来神様と一緒に生きるものとされているからこそ、特別な祝福をいただいているからこそ持っている感覚、神様を求める魂の飢え乾きだということが、聖書を読むと示されるのです。私たちが神様に愛されて造られたから、本当のふるさとを求める、神様にあこがれる気持ちをもっているのです。

聖書は、おとぎばなし、非科学的な空想のように思われるかもしれませんが、こうやって読んでみると、実は人間の本質というものを見事に言い当てているとは思いませんか?

ですから、この聖書が示す神様を知り、神様を信じる時、実は私たちは虚しさや不安ではなく、自分は神様に造られ、愛されている、永遠の祝福をいただいていることが分かるようにされるのです。神様の愛に魂の飢え乾きを癒され、満たされるのです。いいようのない虚しさや不安・どうしようもない寂しさから助け出され、神様から永遠に愛されているという喜びで、心を満たされるのです。永遠に朽ちることのない人生の土台に支えられて生きることが出来るのです。神様があなたを造り、あなたに関心を持っておられ、愛しておられる。ここに私たちのふるさとがある。神のもとに帰るとき、確かな安らぎがあるのです。

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