喜びへの道(2)

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
新約聖書 ルカによる福音書 15章4~7節
教会ではまだ洗礼をお受けになられていない方々のことを「求道者」と呼びます。「求める」「道」と書いて「求道者」と呼ぶのです。
以前、一人のご婦人が教会に初めて出席をされました。私たちは新しい方が来られたのを歓迎しまして、その方が来られたのをとても喜びました。それから、日曜日ごとに教会に来られるようになりました。そしてなんか何回目かの日曜日のことでした。礼拝の後に求道者の○○さんですとなにげなく呼んで、紹介しました。
するとその方が後で私にこんなことを言われました。
「わたしは求道者じゃないんじゃないでしょうか。教会には来ていますが、わたしは道は求めていない」と。
自分は求道していないのに、「求道者」と教会で呼ばれるのは、不本意であるから、そう呼ぶのは止めてくだい、とおっしゃったのです。
私はこの方はとても正直な方だなあと思いました。
それとともに一体、教会が「求道者」と呼ぶ意味はなんだろうかということを考えさせられたのです。
このラジオをお聞きの皆さんはどうでしょうか。当たり前ですが、皆さんのお顔を見ることはできません。どんな方がどんな場所でこのラジオを聞いておられるのかわかりません。このラジオをお聞きの皆さんの中にも、もしかすると別に道など求めていないという方もおありになるかもしれません。
そういう方々にきょう、教会は、「神さまに関心をもってください」、「これから神さまを求めてください」というのでしょうか。
実はそうではないと思うのです。先ほど、聖書の言葉をお読みしました。この聖書の言葉からすると「そうではない」と、はっきり言わなければなりません。
ここには主イエスのお語りになられたたとえ話が記されています。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(4節)、そして、「見失った羊を見つけたので一緒に喜んでください」と言うだろう。ここで主イエスは、神さまについて語られました。「神さまとはどんな方か」を教えてくださったのです。ここで主イエスが伝えられたのは、どういうことでしょうか。
それは神さまがあなたを求めておられる、捜しておられる、関心をもっておられるということです。「あなたが」神さま求める、捜すという話ではないのです。逆なのです。
一匹の羊は見失われています。この一匹の羊は、自分の方からは羊飼いを捜してはいません。
人間は神さまから離れてしまっている。神さまに対する関心を持っていない。あるいは昔はあったが、今はそれをなくしているというべきかもしれません。
しかし、神さまはその人に関心をもっておられる。神がその人を求めておられる、捜しておられる。求めておられるのはあなたではなく、神さまだ、と主イエスはおっしゃったのです。
私が青年のときに、教会で特別伝道集会が行われました。そのとき語られたことは覚えていないのですが、不思議と覚えていることがあります。それはそのときの題です。
「あなたはどこにいるのか」という題でした。これは創世記第3章に出てくる言葉です。アダムが罪を犯して、神から離れ、人間が罪のうちに堕ちたときに、神がお語りになった言葉です。聖書の言葉というのはこのことを伝えています。
「私たちが」神さまを捜す、という話ではなくて、「神さまが」私たちを捜す、ということを聖書は語っています。しかも、熱心に、です。あなたがたが救われるのは、あなたがたの熱心によるのではない、神さまの熱心によるのです。
神さまご自身が、私たちを切に求めていてくださるのです。