喜びへの道(1)

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聖書の言葉

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

新約聖書 ルカによる福音書 15章4~7節

橋谷英徳によるメッセージ

私が自宅近くにあった教会を訪ねたのは中学生のときでした。教会という場所に行くのはそのときが、はじめてでした。何か特別な理由があって教会に行ったというわけではありません。どちらかというと興味本位、好奇心からというのが本当のところだったと思います。

その教会にはスウェーデン人の宣教師の先生がおられました。聖書を学び、礼拝にも出席するようになりました。しかし、どうもぴんと来ないといいますか、自分のような者はここにはふさわしくないというような思いを抱いておりました。やがて、宣教師が帰国されますと、私の足はしだいに教会から遠のいてしまいました。

高校を卒業し大学に入学するために家を離れました。1年くらいたった時のことでした。母から手紙が来ました。その手紙には、こんな内容のことが書かれていました。「私は今、教会に行っている。洗礼を受けようと思っている。あなたも教会に行ってごらん」と。

私はどちらかというと親不孝な子どもでした。暴力を振るったり、わがままで、反抗的でした。おそらく母は、ずいぶん子育てでは悩んでいたと思います。そんな母が教会に行き、そして洗礼を受ける、その事実を知って驚きました。

そして、その手紙をもらってしばらくたってから下宿先の近くにありました教会の礼拝に出席するようになりました。やがて、洗礼を受けて、教会員になり、大学を卒業し、献身の思い、牧師になる決心が与えられて神学校に入学しました。

ただそれは救いの喜びに突き動かされてというのではありませんでした。洗礼を受けて教会生活を送るなかで、それなりに喜びを味わっていました。けれども、まだよくはっきりしないといいますか、しっかりとしたものがなかったのです。

入学してきたばかりの私を見て、当時の神学校の校長先生は「こりゃあかん。使い物にならん。すぐに辞める」と思われたとのことです。そして、予想どおり、数ヶ月後には神学校を辞めてしまいました。自分自身の罪、弱さを覚えずにはおれないことが他にもありました。

悩んでいた私を見かねた教会の友人たちの勧めによって、牧師のところに行って相談しました。牧師は私の話をじっと聞いてくださり、最後に祈ってくれました。もう多くのことは忘れましたが、その祈りだけでは今でも覚えています。

「今、一匹のあなたの羊が迷っています。この羊をあなたは捜してくださいます。」

先ほどお読みしました、主イエスのお語りになったたとえ話からの祈りでした。失われた一匹の羊を捜す羊飼いの話です。この話はよく知っていました。日曜学校の教師もしていたので子どもたちにも、よく話をしていました。実にシンプルな話です。

でも、このときにこの話が初めて、私のこととして迫ってきました。羊飼いである主イエスはこんな私のことを、捜していてくださる。見つけ出してくださる、愛していてくださる。ずっとそうだったのだ。この時に、そのことを信じました。

翌年、もう1度、神学校に入学しなおして、牧師になりました。

思えば、私は自分で一所懸命になって、神さまを捜し、見つけ出さなければならない、と、どこかで思っていたのです。私が求める、私が聖書を読んで、祈って、教会に行って、というように「私が、私が」ということで一杯だったのです。しかし、本当は逆なのです。「神さまが」、「主イエスが」、なのです。人生の主語は「私」ではなく、「神さま」であるということに気づかされました。

本当の人生の喜びへの道は、「私が」見出し、造るのではありません。「神さまが」、「イエスさまが」造り、そこに私たちを導いてくださるのです。

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