十字架で結ばれる母と子②

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聖書の言葉

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

新約聖書 ヨハネによる福音書 19章26~27節

岩崎謙によるメッセージ

今日は、先週の続きです。

主イエス・キリストは、十字架を見上げる母マリアに、愛する弟子を指し示して「あなたの子です」と語られ、愛する弟子に、「これはあなたの母です」と、マリアを指し示しました。その日から、弟子は、主イエス・キリストの母マリアを、自分の家に引き取ったのです。新しい母と子の関係が、十字架上の主イエス・キリストによって、築かれました。

この記事を読んでいて、不思議に思っていることがあります。今日お読みした箇所の1節前、25節には、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とあります。名前は記されていませんが、母マリアの隣にはマリアの姉妹がいたのです。

また、主イエス・キリストには、兄弟姉妹がいます。主イエスが長男で、その下には弟も妹もいたのです。ですから、母マリアを愛する弟子に託さなくても、マリアの面倒を見る人は近くにいたのです。

そのことを心に思いますとき、主イエス・キリストは、母マリアの老後を案じて、愛する弟子に託した、というように、ここを読むことはできなくなります。

また愛する弟子は、母マリアを自分の家に連れて行き、共同生活を始めたのですが、二人はどんな生活をしたのでしょうか。家の中で、母と子の関係においてだけ、主の愛された弟子を、マリアは愛したのでしょうか。そうではないと思います。

主が愛された弟子が、主の業(わざ)を継続して行うときに、マリアはその働きに全面的に協力していったはずです。その弟子の「家」は、当時は「家の教会」と言って、人が集まってくる場所です。礼拝がささげられるところにもなります。いろいろな人が教会に(つまり家に)集まってくる中で、マリアはお世話をしていたのではないでしょうか。

このラジオをお聞きの皆様の中には、もう母親を亡くされた方が大勢いらっしゃると思います。あるいは、わが子を失った悲しみを体験された方もおられるのではないかと存じます。肉親としての母と子の関係には、この地上にあっては、必ずいつか、別れのときが訪れます。

しかし、今日のメッセージに出てくる二人は、肉親の親子ではありません。愛する弟子とマリアは、それとは違う、新しい親子として、十字架の主イエス・キリストによって、この地上に形づくられたのです。十字架の主をともに見上げる母と子が、ここに誕生しているのです。

主は、母に、「これがあなたの子です」と、また、弟子に「これがあなたの母です」と語られました。息を引き取られる前の、遺言とも言える言葉です。この言葉によって新しい母と子が誕生しました。

そしてこれはただ単に、母と子の関係の誕生ではなくて、教会の交わりの原型ともなる交わりを、主イエス・キリストは、十字架の上からつくってくださったのです。

ラジオをお聞きの皆様。お体が許されますならば、ぜひ教会にお越しください。そこには、これから、あなたの「霊の母」と呼べるようなご婦人方がおられるでしょう。また、あなたの「子ども」と、これから呼んでもいいような若い人たちも、教会にはいます。主イエス・キリストは、十字架の上から、新しい霊の家族をつくってくださったのです。肉の家族を超える交わりが、ここにつくられているのです。

このラジオを聴いてから、教会の礼拝に出席される方もいらっしゃることでしょう。

私はいくつかの教会を見てきましたが、どの教会にも、「教会のお母さん」と呼んでいいような方がいらっしゃいました。集ってくる多くの人のことを心にかけて、お世話をする方々です。

家を離れて、神学校に入り、一人で教会に通っていたときに、私のためにお弁当を作ってくださる方がありました。私は博多出身なので、辛子明太子が好きだと思ったのか、いつも、ちょっと辛めの明太子が入っていました。今でも、明太子を食べると、そのお弁当を思い出します。

多くの愛に支えられて、自分の教会生活はある、教会の中に、母と呼べる多くの方々がおられ、その方々に支えられて、今の自分がある、ということを、この母の日に、感謝をしたいと思います。

今日は、教会に行ったら、「霊のお母さん」に、「ありがとう」と声をかけましょう。

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