今日、あなたは楽園に

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聖書の言葉

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

新約聖書 ルカによる福音書 23章42~43節

金原義信によるメッセージ

今日はイエス様の十字架を記念する受難週を迎えています。イエス様のご受難を覚え、その恵みに一緒にあずかりたいと思っています。

イエス様が十字架にかけられたとき、一緒に二人の犯罪人が十字架にかけられました。そのうちの一人はイエス様をののしり続けました。自分が十字架刑に処せられている苦しみや悔しさを、イエス様をののしることで和らげようとしていたのでしょう。しかし、もう一人の犯罪人はそれをたしなめ、そして、イエス様を救い主として受け入れ、イエス様に自分のことを委ねたのです。

この人はなぜ十字架の上でイエス様を信じるようになったのでしょうか。そこで注目したいのはイエス様の祈りです。イエス様はご自分を十字架につけた人たちを赦し、彼らのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)こんなにひどい目に遭わせている相手のために祈る。すごいなあ、と思います。まさに、敵を赦し、敵を愛し、敵のために祈るということをなさっています。

イエス様のしてこられたことは、神様のことを語り、病める人を癒し、友なき人・見捨てられた人の友となる、ということでした。同時に、イエス様はご自身を神様として示してこられました。当時のユダヤの指導者たちには、これは、自分を神と等しくすること、神を冒瀆することで、がまんならないことでした。都エルサレムから離れたナザレから出て来たにすぎない者が、自分たちの前に、このように神として語る、というのは赦せなかったのです。彼らにしてみれば、神はただお一人のお方、人間が自分を神として語るということは、決してあらぬことなのです。

ユダヤの指導者たちは、自分たちが正しくて相手が間違っていると強く確信していますから、正義感もあり、イエス様に対する憤り、憎しみも激しかったのでしょう。それはイエス様を徹底的に無き者にしなければ納得できないほどのものでした。十字架刑は極悪人が受ける最も重い、恥ずかしい刑罰です。お前はこの世からいなくなれ、お前はいらない、神から呪われている、ということを示す刑罰です。そのような十字架に、イエス様をつけたのです。

その彼らのためにイエス様は祈られました。これはなかなか出来ないこと、すごいことだと思います。しかし同時に、私たちは、自分が正しくて相手が間違っていると確信したとき、どのような感情を持つでしょうか。時として私たちもまた、正義感に燃え、相手を断罪して容赦しない、そういう思いにとらわれることはないでしょうか。赦せないという思いから、なかなか自由になれないのです。そのために相手を徹底的にたたきのめしたくなる・・・。そんな感情さえ、あたまをもたげてくることはないでしょうか。

そんな中で「あなたのためにイエス様が祈っておられる。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」そう祈っておられると言われたら、どうお感じになるでしょうか。素直に受け入れられるでしょうか。

なぜ私がキリストに祈ってもらわなければならないのか。私は神に赦してもらわなくてはならないような犯罪人だというのか。完全とは言わないが、人並みには正しくやっている。そんなふうに思った時、このイエス様の祈りは、かえって癇に障る、邪魔なものになるのです。キリストが私に何を言うか。聖書に出て来るナザレのイエスが私の神だ、と認めなければならないというのだろうか。

実はその気持ちこそが、イエス様を十字架につけたユダヤの指導者たちの気持ちだったのです。ナザレのイエスごときが何を言うか。私たちに神様づらするのか。あなたはわれわれの神だというのか。そしてイエス様を十字架に追いやって、消そうとしたのです。

そうやって見ていきますと、イエス様の十字架は、私たちと決して無関係ではないのです。そうではなく、この私のために、イエス様は十字架におかかりになったのだ、ということなのです。その私のために、なお祈るキリスト、そこには人間を超えた、神様の愛があります。自分の正しさにこだわり、そのために人を赦せなくなって、傷つけていた自分がいる。裁きあい、傷つけあう、人間の愛の破れを、イエス様はあの十字架において、担ってくださった、背負ってくださったのです。

本当は私たちも、神様に赦されなければならないのです。そのような自分の姿に目が開かれます。イエス様の祈りに照らし出された自分の姿を、そのように認めたとき、イエス様には私たちを超えた神の愛があることに気づかされるのです。このイエス様の祈りに支えられている私たちのことがわかるのです。

誰にも奪われない神の愛がここにある。だから「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい」と言うことが出来るのです。そのとき「今日、あなたは楽園にいる」という約束をいただけます。神に赦され愛されて生きる喜びの楽園です。

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