イエスは涙を流された

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聖書の言葉

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章33~35節

金原義信によるメッセージ

私たちは、誰でも死ななければなりません。これは皆、同じです。もともと人間は「死ぬべきもの」なのでしょうか。人が死ぬのは、人間本来の姿なのでしょうか。人間も自然の一部であって、やがて死んで、自然の中に帰って行く、という考え方があると思います。もしそうなら、人が死ぬのは、人間本来の自然の姿だということになります。それならば、死を、どのようにして、安らかな、静かな気持ちで迎えられるかが、大切なことになるでしょう。それ以上のことは望むべくもないのです。自分もやがて親しい人と別れ、たった独りで死んでいく。そのあとは本当に独りぼっちになる。決定的な別れであって、それはどうすることも出来ない、ということになります。

先ほどお読みした箇所には、イエス様と親しくしていたラザロという人が亡くなり、その墓にイエス様が来られた時のことが記されています。そこには愛する兄弟を失い、悲しみにくれているマリア、そして彼女を慰めようと一緒に来ていたユダヤ人たちがいました。皆、泣いています。そしてイエス様に、ユダヤ人たちが「主よ、来て、ご覧ください」と言っています。どうすることも出来ないラザロの死の現実をイエス様に示して、「来て、見て下さい」と言っています。ユダヤ人たちは、ただお一人の神がおられて、人は神に造られたと教える聖書を知っていた人たちです。けれども、その彼らも、「ラザロはもう死んでしまった。病で苦しんでいても、生きているうちならば、イエス様に来ていただければ、助かったかもしれないけれども、死んでしまったら、もうイエス様だってどうしようもない。望みはない」と思っていたのです。

主イエスはそれをご覧になって、「心に憤りを覚え」、「興奮して」、そして「涙を流された」とあります。イエス様は、皆に同情して涙を流され、ラザロが死んでしまった無念に興奮し、憤られたのでしょうか。イエス様は確かに、愛する者を亡くしてしまった人の悲しみや苦しみを誰よりも深く同情され、理解し、受け止めてくださるお方です。けれども、それだけでは終わらないイエス様のみ力を、そのあとで示してくださるのです。

このあと、イエス様はラザロを墓の中からよみがえらせます。そのことによってイエス様は、ご自分が死に打ち勝つお方、よみがえりであり命であられるお方であることを、明らかに示されます。そのことによって、私たちがこの世を去った後も、死の壁をのり越えて、私たちの傍らにいてくださり、私たちを支えてくださる、力のある方であることを、示してくださったのです。

けれどもそれは同時に、イエス様は「神だから、死ななくてよいのだ」ということではないのです。イエス様は、私たちのために死んでくださり、しかも、人と別れ別れになるだけではなくて、神様から、見捨てられ、本当に独りぼっちになってしまう、望みのない死の苦しみを、私たちの分まで背負って、十字架に死んでくださったのです。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という十字架でのイエス様のお言葉に、そのことがよく表れています。

イエス様が、私たちの代わりに、神に見捨てられる、死の苦しみを味わってくださいました。だから私たちは、この世の生涯を終える時にも、それは神に見捨てられて、まったく独りぼっちになるのではなくて、イエス様が一緒にいてくださる、という望みを持つことができるのです。

イエス様の十字架に向かわれる歩みは、まことに激しい戦いです。私たちを愛し救い出すための戦いです。その戦いの激しさの中から出てきた憤り、興奮、涙なのです。それは、私たちを愛し、救い出すための、激しい憤り、興奮、涙、私たちへの愛の激しさをも、表すものです。

聖書によれば、人間は本来「死ぬべきもの」ではありません。神の祝福の中で、永遠に生きるべきものとして造られました。けれども人間が、神のようになろうとしたために、祝福された命を与える神との関係が壊れてしまったのです。自分が神になりたい心、それは人間同士でも争いを生んでいます。その最後は、望みのない死です。

そこから私たちを救い出すために、イエス様は来て下さったのです。そのために死と戦い、復活なさった。死に打ち勝つお方であることを示すために、ラザロをよみがえらせたのです。

私たちもやがて世を去る時が来ます。ラザロもやがて世を去りました。けれども、死に打ち勝つイエス様を信じるなら、私たちには、消えることのない望みがあります。

私たちは生きている時も、世を去る時も、その後も、神からも見捨てられるのではなく、永遠の命・よみがえりであられるイエス・キリストが、激しい愛をもって一緒にいて下さるのです。

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