シャガールの『楽園を追放されるアダムとエバ』

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聖書の言葉

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。

旧約聖書 創世記 3章15節

吉田実によるメッセージ

私がお話をさせていただくときは、「絵画と信仰」というテーマで続けてお話をさせていただいておりますけれども、今回は20世紀のフランスを中心に活躍いたしました、ロシア系ユダヤ人画家シャガールの作品をご紹介いたします。

皆さんはシャガールと聞いて、どういう作品を思い浮かべますか。おそらくは、人間や動物が宙を舞っているような、幻想的な、夢のような作品を思い浮かべる方が少なくないのではないでしょうか。実際に、シャガールはそういう作品をたくさん描きました。抱き合った恋人たちが空に舞い上がり、動物や魚も空を飛び、巨大な鶏が踊るというような、遠近法も重力の法則も無視した夢のような世界を彼は描きました。ですからシャガールは「幻想画家」と呼ばれたりします。

けれどもシャガール自身は、実はそうは思っていなかったのです。「作品制作に当たって、あなたの夢は重要な役割を果たしていますか?」と質問されたときに、彼は答えました。「私は夢を見ない。」また、彼は自伝の中でこうも述べています。「私を幻想的と呼ばないで欲しい。反対に私はレアリストなのだ。」シャガールの絵に登場する動物たちは故郷の町、ロシアのヴィテブスクのユダヤ人居住地で共に暮らした仲間たちであり、魚は、にしんの倉庫で働いていて事故で亡くなった父親の記憶と一つであり、空に浮かぶ恋人たちの姿は、シャガールが慣れ親しんだ言葉であるイディッシュ語の表現の反映でした。すなわち、イディッシュ語では「非常に嬉しい」という気持ちを表すのに「空中に舞い上がる」という言い方をするのだそうです。つまりシャガールは勝手気ままな空想の世界に遊んでいたのではなくて、彼の心の中に刻まれた風景や人物や言葉や文化を再構成して表現しているのであって、それは彼にとっての生活であり、現実であり、真実だったのです。

そんなシャガールは、敬虔なユダヤ人の家庭に育ち、幼い頃から聖書に親しんで育ちましたので、常に聖書の言葉を心に刻んでいましたし、聖書の物語を主題にした作品を沢山残しています。

そんなシャガールが描いた「楽園を追放されるアダムとエバ」という作品があります。最初の人間であるアダムとエバは、エデンの園の中でどの木からでもその実を取って食べることが許されていましたが、善悪の知識の木の実だけは食べてはならないと、神様に命じられていました。そのことを通して彼らは、造り主なる神様への従順を示さなければならなかったのです。ところが、悪魔の使いである蛇にだまされてその実を食べてしまった二人は、罰としてエデンの園から追放されてしまいます。その場面を描いた作品です。

この作品の中で、アダムとエバは確かに少し悲しそうな表情を浮かべて、白い天使に追い立てられるようにしてエデンの園から追放されています。けれども、そのアダムとエバの姿はまるで宙に浮いているように見えますし、鳥の背中に乗っているようにも見えます。また周りの動物や鳥も楽しげに舞い踊っているように見えるのです。作品全体として、重たいテーマの割には悲壮感に欠けると申しますか、優しさや楽しささえ感じるような画面となっています。けれども、レアリストであるシャガールは、決して甘ったるい幻想を描いたのではないと思います。

はじめにお読みした聖書の言葉は、エバを誘惑した蛇、つまり悪魔に対する神様の裁きの言葉です。神様は悪魔と人間の間に敵意を置いてくださって、そしてついには、人間は悪魔との戦いに勝利するということを、この裁きの言葉の中で約束してくださいました。そしてその約束は、やがてこの世に真の人間として来てくださいました救い主イエス・キリストにおいて成就したのです。最初の人間が、神様に逆らい、罪を犯し堕落してしまった、その最も悲惨な出来事の只中に、すでに神様の救いのご計画は動き始めている。神様の愛の歌は、楽園追放という厳しい裁きの只中にも響いている。それが、幼い頃から旧約聖書に親しんだシャガールの確信だったのではないでしょうか。

この画面の右上の端をよく見ますと、黄色い動物の陰にキャンバスに向かっている画家の姿が描かれています。それは他でもない、シャガール自身の姿だと思います。そしてその対角線上に、黄色い動物と響きあうように黄色い光を放つ花束が描かれています。この花束は神様の愛の光の象徴であり、その光は確かに私にも届いている。自分自身も堕落した罪人の子孫であるけれども、そんな私にも神様の愛の光は確かに注がれている。それは甘ったるい幻想ではなくて、彼自身の、そして私たちの、確かな信仰の現実なのです。

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