私を強める愛のしるし

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聖書の言葉

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章38~39節

山中恵一によるメッセージ

先日、ある教会の青年たちと話し合っていたときのことです。ある青年が、日本人の抱く宗教へのイメージについてこんなことを言っていました。「宗教を信じるなんていうのは弱い人間のすることで、クリスチャンというのは弱い人間だ。」直接に言われることはないらしいのですが「どうもクリスチャンというのは、社会からそんな目で見られているのではないか」と、現代日本を生きるクリスチャンの、肩身の狭さみたいなものを感じました。

「クリスチャンは弱いと思われている。」確かに、ろくに自分のことを知らない人から言われれば、あまり気分のいい言葉ではありません。しかし、よく考えてみますと、人から「弱い」と言われておもしろくないと感じる思いの裏には「人間は強いほうがよい」という価値観があるように思えます。「なにかを信じて生きること、自分以外のなにかを頼る生き様は弱い生き方だ。」こんな思いが自分の中にもあるのかもしれません。安っぽい言い方でいうならば「自分の力で生きられない人間はカッコ悪い奴だ。ダサい奴だ」こんな意識があるのだと思います。

たしかに、この世界に神様なんてものはいなくて、人は自分の力で生きていかなくてはならないのだとすれば、自力で人生を歩めない人というのは弱い人と言われるのかもしれません。また、そうした目でクリスチャンを捉えるのであれば、クリスチャンとは「自分の力で生きられないから、ありもしない神様を作り出して、必死に神様はいると信じ込もうとしている人たち」…。社会の目にはこんな風に映るのかもしれません。たしかに神様がいないのであれば、本当にわたしたちクリスチャンは惨めな人たちであり、集団で現実逃避をしている憐れなグループでしょう。

しかし、神様とは「信じるならいる、信じなければいない」というお方ではありません。神様とは、誰かが信じようが信じまいが、確かにおられる方です。これはクリスチャンにとってはもうどうすることもできない事実です。いない神様を信じ込む姿は愚かな姿に見えるかもしれませんが、神様がおられることを気付かされていながら、もしそれを必死にいないと信じ込むのであれば、その姿は愚かを通り越して滑稽な姿です。

しかも、この神様はこのようなことを言われる方です。「あなたは自分の力では生きることができない。なぜなら、あなたはわたしと一緒に生きるために生まれてきたからだ。だから、あなたはわたしを頼りにして生きなさい。」さらに、神様は言われます「しかし、あなたは、今のままではわたしと一緒に生きることはできない。それどころか、今のままでは私はあなたを捨て去らなくてはならない。私と一緒に生きていくには、あまりにもあなたの魂が汚れているからだ。・・・だから、その魂の汚れのすべてをその身に負うために、わたしの愛するひとり子をあなたに与えよう。彼は、あなたの汚れをすべて背負い、あなたの代わりに十字架でわたしに捨てさられる。もし、わたしのこの言葉を信じるのならば、十字架で命を捨てるわたしの子に免じて、あなたはわたしと一緒に生きる者になると約束しよう。」そして確かにイエス・キリストは、御自分がそのひとり子であることを示され、歴史の中で十字架の上に命を捨てられました。

このような神様を頼りに生きる姿が「弱い」と言われるのであれば、それはもう「はい、そのとおりです」と言うほかありません。わたしたちはイエスさまを頼りにして、神様に依存しなくては生きていけない弱い存在です。神のひとり子が命を捨てなくてはならないほどの弱さ、魂の汚れが自分にあることをクリスチャンは認めざるを得ません。ただ、「弱いクリスチャンの人生は貧弱なつまらない生き方である」と言われるのであれば、これは大きな誤解と言わなければならないでしょう。

なぜなら、わたしたちの弱さを神様は放っておかれずに、そこに愛を注いでくださるからです。誰かに愛される人生の豊かさは、神様を信じていようがいまいが、すべての人の認めるところであると思います。今日は2月14日ということで、世間ではヴァレンタインデーのことが騒がれていることかと思います。そして、この日、多くの人たちが愛する人に贈り物をささげます。贈り物をとおして人々は相手の気持ちを受け取ります。この先も一緒にいたいと思う相手に、自分の愛のしるしを贈ります。この日、愛のしるしに力付けられて、愛する喜びと愛される喜びを多くの恋人たちが味わいます。欠点を持っている相手だとしても、愛され、愛して一緒に生きていくことは人生の大きな豊かさではないかと思います。

もし、神様がおられるとしたら、その神様と愛し愛されて生きる人生は弱く貧しいものではありません。それどころか、自分がどれだけ弱いとしても、自分と一緒に生きてくださる神様の強さの中で、わたしたちはどのような苦しみの中にあっても決して絶望することはありません。十字架という神様の愛のしるしは、わたしを常に力付けてくださいます。自分のひとり子すら惜しまれない愛をもって私たちを大切にしてくださる方は、わたしたちを手放されることは決して無いからです。この世界でもっとも強い神様に、愛し抜かれて生きる「弱いクリスチャンの人生」に皆様を心からお誘いいたします。

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