悲しみが癒されて

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

新約聖書 マタイによる福音書 2章16節

国方敏治によるメッセージ

今朝は救い主イエス・キリストの誕生を巡って起こった悲しい出来事に心を集めたいと思います。イエス・キリストは、ヘロデという王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。東の国で不思議な星を見た星占いの学者たちは、ユダヤの新しい王が誕生したことを確信し、ユダヤの都エルサレムにやって来たのです。それを聞き、知ったヘロデ王は救い主がユダヤのベツレヘムで生まれることになっていることを確かめた上で、星占いの学者たちを遣わしました。学者たちは東方で見た星に導かれて、幼子イエスと出会い、宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。ところが、学者たちは夢で「ヘロデの所へ帰るな」とのお告げを受けて、別の道を通って自分たちの国へ帰ってしまいました。学者たちに騙されたと知ったヘロデ王は大いに怒り、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたというのです。ここに、まことに悲しい、残虐なヘロデ王による幼児虐殺事件が起こったのです。しかもそれは救い主イエス・キリストの喜ばしいはずの誕生が引き起こした、まことに悲しい出来事であったという事実です。

ヘロデ王の怒りは直接には、星占いの学者たちに騙されたことによるものです。私たちでも誰かに騙されたら、怒るに違いないのです。でも考えてみると、ヘロデ王の怒りの根本的な原因がイエス・キリストの誕生、新しい王の誕生にあることは間違いないことです。新しい王が生まれることはヘロデ王にとってはライバルが登場するということです。自分の王としての地位が危うくなるということです。そのような存在を邪魔者として殺してしまおうと考えたのです。王とは自分の世界、自分の王国を造ります。そしてそれを妨げる存在を邪魔者として追い出し、殺してしまおうとするのです。自分が自分の王様でなければ気がすまないのです。それは一体だれの姿なのでしょうか。そのような自己中心の怒りの中で邪魔者となった新しい王への敵意が、幼児虐殺という悲しみを生み出したのです。

こうしてヘロデ王によるベツレヘムとその近郊の二歳以下の男の子の殺害という悲劇的な出来事において、預言者エレミヤの言葉が実現したと聖書は言います。ラマという町で嘆き悲しむ声が聞こえてくる。それはイスラエルの先祖ヤコブの妻であったラケルがその子供たちを失って悲しむ嘆きの声だと言うのです。それはイスラエルの民が大国の支配によって奴隷とされ、強制的に他国に移住させられるという苦難の中での嘆きの声です。その嘆きの声と重ね合わすようにしてイエス・キリストの誕生を巡って深い悲しみの声が聞こえてくるというのです。イエス・キリストの誕生が喜びを生むよりも、悲しみを生んでいるという現実です。どうしてなのでしょうか。

そこに見えてくるのは、私たちの自分が自分の王でなければ気が済まないという自己愛、自己主張です。まことの王として来て下さった救い主を邪魔者として排除しようとする私たちの罪です。それはより根本的には、その悲しみが生ける神さまから失われた者である私たちに対する悲しみであると言うことができます。その意味では、癒されない悲しみではない、お生まれになったまことの救い主イエス・キリストによって癒される、まことの慰めが与えられる望みがあるのです。神さまは失われた者をご自分の独り子イエス・キリストを遣わしてまで、救おうとされる恵みの神さまだからです。

ヘロデ王の激しい怒りは、ベツレヘムとその近郊の二歳以下の男児殺害という悲劇を生み出しました。そこに民族の母と言われたラケルの悲しみがあったのです。この母の悲しみを生んだ人間、自らを王とする人間のただ中に、その罪の現実の中にイエス・キリストは入って来て下さったのです。そこにまことの王、救い主であるイエス・キリストの苦難、そして十字架の死があるのです。ヘロデ王は、そして私たちは自分の存在を危うくする者は邪魔者として殺してしまおうと考えます。しかし、イエス・キリストはそうではありませんでした。イエス・キリストの愛は、そのような私たちを邪魔者とするのではなく、赦し、受け入れて下さる十字架の愛なのです。聖書はこう言っています。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53:5)

そうです。イエス・キリストによってこそ私たちは背きの罪が赦され、まことの慰めが与えられるのです。クリスマスというと何か非常に静かな牧歌的な雰囲気の中で、イエス・キリストの誕生が祝われるというイメージがあるかもしれません。だがそうではありません。イエス・キリストが救い主として来て下さったということは、そこに神さまの激しい、熾烈な罪との戦いが起こったということです。そしてその一切の罪の償い、罪の赦しを御子イエスが成し遂げて下さったことによって私たちは神の子とされ、クリスマスの本当の喜びに与ることができるのです。本当に有り難いことです。

関連する番組