神と共に永遠に

キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章25~26節

大野桂一によるメッセージ

皆様は、この言葉を聴かれてどのように考えられるでしょうか。

そんな馬鹿なことはない。クリスチャンも皆死んで行くではないか。復活とか死んでも生きるなどとは迷信である。キリスト教の教えは良いが、こんな言葉があると、どうしてもついていけない、と思われるかもしれません。当然なことです。通常死とは、心臓が止まり息をしなくなることで、その人が生きるはずはないからです。

しかし、キリスト教にとっては、イエスが私たちの罪を赦すために十字架で死に、三日目に復活されたということは、キリスト教が立つか倒れかの最も大切な真理なのです。実は、聖書の言っている復活、死、生きる、また罪などは、通常私たちが使う言葉と少し違った意味で用いられているのです。それらの言葉がどのような意味で使われているのかを知る必要があります。復活とは、物質的な体がそのままの状態で生き返ることを意味しているのではありません。

イエスの弟子たちも、イエスの教えが十分理解できず、イエスが十字架につけられた時、皆恐くなり、イエスを見捨て逃げたのです。イエスのなさったこと、教えは、十字架で終りを迎える筈でありました。ところが十字架につけられ墓に葬られイエスは、三日目に復活され、弟子たちに現れて下さったのです。

弟子たちは、復活された主イエスに出会い、裏切った自分たちがなおも信頼され愛されていることを悟ったのです。十字架は、自分たちの罪を赦すための身代わりの死であり、自分たたが罪赦され、主イエスと共に生きるためであったと信仰の眼差しをもって悟ったのです。

あの弱かった弟子たちは、今度は迫害に屈せず、殉教の死を遂げても、十字架の死と復活の事実を宣べ伝え、キリスト教が起り、広まったのです。主イエスの復活があったからこそ、主イエスを信じる人が起り、新約聖書が書かれ、現在も信じる人が存在しているのです。

聖書の教えによると、神は霊であり永遠・無限の方です。その神は天地すべての物を、無よりお創りになりました。神は天地の創造に当り、人を土の塵から創り、特に人をご自身に似せるため、その鼻に命の息を吹き入れられ、人は生きる者となったのです。愛であり霊なる神は、人だけに神の命の息を吹き込まれて、人は生きる者となったのです。人は神より霊性を与えられたのです。それは、人がその霊性によって、愛を持って神と交わり、他の人と交わるためでした。キリスト教で言う罪の意味は、この神との交わりが無いこと、自分中心のエゴにより神を認めないことを罪と言うのです。

人は動植物と同じ土という物質的素材で創られ、他面、動物と異なる特別な霊性をもつ存在なのです。肉体においては大地と連なり、霊性においては神と連なる者として創られたのです。動物とは異なり、神と交わるべきものとして創造されたのです。

だから人は心臓が止まるとその体は、動物と同じ様に土に返りますが、その霊なる命は神の懐に帰り、神と共にあるべき者なのです。生きている時も死後も、具体的な私という存在が神と共に生きるべきものなのです。肉体と霊と一体になって神と交わることが、生きるということです。逆に言えば、神と交わりの無い生き方は、神に対して生きているとは言えないのです。

皆様の内には、死とは何もかも無になり、それで総ては終りだと考える方もおられるでしょう。また、この肉体は死んでも霊魂は存在すると考えられる方も多いでしょう。でも神と無関係な霊魂は、死後は何処に行くのでしょうか。

死は肉体が滅び裸の霊魂が、全く聖い神の前に一対一で立つ時なのです。ごまかしのきかない真の私が暴露される時なのです。キリストを信じる者は、キリストの十字架の故に、罪なき者として神の御前に立つことが出来るのです。

アダムの罪以来、生れながらの私たちは、自己のエゴにより全く自分中心的なのです。神と交わることの出来ない罪人なのです。神を崇めず、たとえ神を認めても自分の生きる道具のようにしか考ないのです。そのように神より離れている私たちを、神はなお愛し、神との交わりを回復させるために、すべての人の罪をキリストに負わせ、キリストを十字架に架ける必要があったのです。何故ならすべての人は、自分の力によっては、罪の全くない聖い者として神の前に立つことは不可能で、神との交わりを回復する道はなく、絶望しかないからです。

しかし、すべての人の罪は、既にキリストの十字架で処分済みなのです。それを信じさえすれば、神は罪なき者として見做して下さり、罪なき者として神の御前に立つことが出来、この物質的な肉体は滅んでも、霊において神と共に生きることが出来るのです。そしてこの世界の終りの時に、私たちの霊は、永遠の命を生きるに相応しい体を与えられ、霊の体を持って神と共に生きるのです。

時間的にも空間的にも有限である私たちが、知性・理性を如何につくしても、永遠・無限である神を知ることは不可能なのです。神がご自身を知らせておられる聖書の言葉によって、神を知り、信じ、神と共に永遠に生きる者とされるのです。

どうか皆様が、聖書の御言葉を信頼し、キリストを信じ、神と共にある命の希望に生かされる人生を、送って下さいますように心より願います。

関連する番組