礼拝の希望

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聖書の言葉

わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 6章19節

宮武輝彦によるメッセージ

九月のはじめの日曜日、キリスト教会においては心と体を再び元気に奮い起こす日として「振起日礼拝」をもっている教会もあります。

聖書が証言するイエス・キリストの十字架と復活は、わたしたちの疲れをいやして余りある、心と体に新たな励ましとたしかな救いと希望をもたらすものです。

葬られた墓の中から復活したイエス・キリストの目撃証人の一人である、弟子のペトロは、その手紙の中で、イエス・キリストの十字架と復活をもとにして、洗礼についてこのように教えています。

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない方のために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとに導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。

この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(ペトロの手紙一3章18~21節)

このように、イエス・キリストの十字架は、「肉では死に渡された」と言われ、復活は、「霊では生きる者とされた」と言われます。つまり、イエス・キリストの死は、ただの死ではなく、神の裁きのもとに服する死であったのであり、その復活は、神の命に新しく生き返ることを意味していました。

ですから、わたしたちにとって、イエス・キリストを信じ、この御方の命の中に生かされる者たちは、かたくキリストに結び合わされること、これが、キリスト教の救いの要となる教えです。

それでは、どうして、弟子のペトロは、ここで、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教された」、広くご自身のことばを伝えたと言うのでしょうか。それは、キリストがもはや死に支配された御方ではないことを明らかにするためです。それは、死後の世界を支配している姿として表現されます。

この言葉を善意に取れば、死後の人々にもう一度救われる機会が与えられるように理解することもできるかもしれませんが、ここにはそのような結末は何も書かれていません。むしろ、書かれてあることは、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たち」と言われ、歴史的な事実として、ノアが箱舟を作っているのを見、ノアの告げた警告を聞いても信じなかった人たちのことが書かれています。「箱舟に乗り込んだ数人」「すなわち」ノアとその家族「八人だけが水の中を通って救われました」と、神の救いとその事実が、思い起こされるのです。

そして、ペトロがとくに教えることは、この「水」の意味です。キリストが、十字架の死から復活された今、かつて、ノアの時代には、滅びの象徴であった「水」が今や、救いの象徴に転換したことです。

ですから、「この水で前もって表された洗礼(バプテスマ)は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼(バプテスマ)は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」(3章21節)と、キリスト教の「洗礼」(バプテスマ)の意味は、外面的な儀式ではなく、霊的なものであることを明らかにします。

そして、洗礼は、「霊では生きる者とされた」キリストの支配の中で確立されるものであり、繰り返しますが、ノアの時代には滅びの象徴であった「水」が今や救いの象徴として、しるされる時が来たことを告げる大いなる救いのしるしであることを教えるのです。

始祖アダムにおいて罪が世に入り、全人類は、むなしく神々をあがめるものに堕落してしまいましたが、今や、キリストにおいて定められた洗礼は、「肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求める」祈りにおいて、その真実が証しされるのです。

もし、洗礼が人を救うのあれば、人間には、何の責任も問われません。しかし、洗礼が人を救うのではなく、キリストが罪人(つみびと)の身代わりとなって、十字架の死において、神の裁きを担ってくださり、朽ちることのない霊の体に復活されたので、キリストを信じ、キリストの中に生かされる人たちが救われるのです。

ここには、人間的などのような差別も分け隔てもありません。まったく同じ救いの恵みが、ただ、キリストのもとに来て、十字架と復活が、自分の罪とその赦しのためであったと信じる人々に与えられるのです。

ローマの時代、船で用いる「錨」はしばしば、人生の土台としてたとえられました。海の上で、嵐の中で、船が流されないためには、重く頑丈な錨が必要でした。それで、冒頭の聖句は、「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの」と言われるのです。それは、十字架の死の時に、神殿の「至聖所の垂れ幕」が上から下まで真っ二つに裂けたことに象徴的に示されたように、復活のキリストがおられる天に向って開かれる礼拝に至る道です。

この聖なる礼拝は、疲れた魂をいやし、慰め、新たにされる恵みの機会です。このたしかな慰めと希望の中に、新しい力によって、共に生かされたいと願います。

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