祈り続けるということ
神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。
旧約聖書 詩編80編4節
旧約聖書 詩編 80編4節
「キリストへの時間」をお聴きの皆さん、おはようございます。忠海教会牧師、唐見敏徳です。
祈りはキリスト教の信仰においてきわめて大切な要素です。祈りのないキリスト教の信仰はありえないといっても差支えないほどです。聖書の中には、イエス・キリストが弟子たちに直接教えられた「主の祈り」をはじめ、数多くの祈りが記されています。今朝は、先ほどお読みした詩編80編のことばを手掛かりに祈りについて、そして一歩進んで祈り続けるということについてお話します。
旧約聖書の中に詩編と呼ばれる書物があり、そこには全部で150の詩編が収められています。すべての詩編はある意味において皆、祈りの性格を有しています。その中で詩編80編は、苦しみのただ中にある詩人の祈りを通して、祈り続けることの大切さを教えてくれます。
この詩編において詩人とその仲間は、明らかに苦難の中に置かれています。そこで彼らは「涙のパン」を食べさせられ、さらに「三倍の涙」を飲まされていると告白しています(6節)。では、実際どのような苦難が詩人たちを襲っていたのでしょうか。考えられるのは侵略戦争によって引き起こされた悲惨な状況です。七十人訳と呼ばれる古いギリシャ語聖書では「アッシリアについての詩」という文言が表題につけられています。また、本文に入ってイスラエル、ヨセフ、エフライム、ベニヤミン、マナセと名前が連続するのですが、これらは全体として北イスラエル王国と理解することができます。これらを考慮すると、紀元前722年のアッシリア帝国による北イスラエル王国の滅亡、次に南ユダ王国がターゲットになっている状況が想像されます。
詩人は、侵略戦争によって荒廃した国とその民を「荒らされたぶどう園」として表現しています。かつては伸び伸びと成長し、豊かな実を結んでいたぶどうの木。それが、いまや変わり果てた姿になっています。ぶどう園を囲む石垣は破られ、他人が勝手に入って実を摘み取っていきます。また、これは近年日本全国の農地でも起きていることですけれども、猪や他の動物がぶどう園に入って荒らしているのです。これらの描写は、アッシリアの軍勢を前にしてなすすべなく荒廃させられたイスラエル・ユダヤの国とその人々の比喩として読むことができます。
このような絶望的ともいえる苦難の中にあって、最初にお読みした聖書のことば、「神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。」という切実な願いが祈られました。少し詳しく見てみましょう。
まず注目したいのは、この祈りが神に向けられたものであることです。神々ではなく、神です。偶像の神々ではなく、真の神です。詩人の祈りの対象は聖書が語る主なる神のみであって、それ以外にはありえません。
さらに「わたしたちを連れ帰り」と続きます。「わたし」ではなく「わたしたち」です。「連れ帰り」と訳されている言葉は、元通りにする、回復するという意味を持つ言葉です。詩人の願いは自分だけが助かるということではなく、皆がともに助かることです。戦争の渦中で自らの命が危険にさらされている状況にあっても、詩人は共に生き延びることを祈り願っているのです。
「御顔の光を輝かせ」とあります。「御顔」とは神の顔のことで、この表現は神の祝福を意味しています。旧約聖書の民数記という書物に次のような箇所があります。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。民数記6章24~26節
これは「アロンの祝福」と呼ばれるもので、礼拝の終わりに祝祷のことばとしてよく読まれる聖書のことばでもあります。その中で主なる神の御顔のことが繰り返されていますけれども、つまり創造主なる神が被造物であるわたしたちにその顔を向けて下さること自体が、計り知れないほど大きな祝福なのです。
結びに「わたしたちをお救いください。」と詩人は訴えます。ここでも、「わたし」ではなく「わたしたち」であることに心を留めたいと思います。詩人の願いは、あくまでも自分一人ではなく皆がともに救われることにあります。
詩人の祈りはここで終わっていません。彼は、同じ言葉をもってさらに祈り続けます。
万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。(8節)
万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。(20節)
詩人は合わせて三回、同じ文言で祈っているのですが、よく見ると、神への呼びかけの部分が少し異なっています。具体的には「神よ」から「万軍の神よ」へ、最後に「万軍の神、主よ」というように、言葉が一つずつ付け加えられています。これは、詩人の思いが、祈りの対象である神に向かって、より強められていることを示しているといえるでしょう。祈り続けられる中で、同じことばでありつつも、そこにさらに真実さが増し加えられているということもできるでしょう。
さて、詩人の願いは聞き届けられたのでしょうか。詩編80編には、その点において、祈りが聞き入れられたとも、そうでなかったとも書かれていません。この詩編はただ、詩人の祈り続ける信仰の姿を描いて閉じられます。それは祈りについて、また祈り続けるとはどういうことかについて、わたしたちに示し続けています。
「万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。」
聖書が語る真の主なる神は、確かにわたしたちの祈りに耳を傾け、御心にかなってその願いを聞きあげてくださるお方です。わたしたちには、主なる神に祈り続けるすばらしい恵みが与えられているのです。