聖書の言葉
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。
新約聖書 ヨハネの手紙一 4章18節
宇野元によるメッセージ
半世紀近く、聴き続けているピアニストがいます。最初の頃はLP でした。途中から CD で。今はスマホで聴くこともあります。何度か、演奏会にも足を運びました。2001 年のリサイタルが印象に残っています。その夜は、ショパンのみのプログラムでした。アンコールでもショパンのエチュードをふたつ。最後に、彼がもういちどピアノの前に座ると、ドビュッシーの前奏曲「沈めるカテドラル」が弾きだされました。小さな音が、しだいに大きく積み重なってゆきます。音はこの世で最もはかないもののひとつでしょう。しかし、確実な音の響きによって建物が作られてゆきます。ひろがってゆきます。「音楽は空間の芸術」であると言われます。音楽は建物に似ている、それをからだで感じていました。ひとときのことでしたが、透明な、豊かな音の家の中で心ときめいていました。
聖書の独特な表現のひとつに、「キリストにある」という言い方があります。クリスチャンが手紙の終わりに「主にありて」と記すことがあるのは、これに倣うものです。英語ではIn Christ イン・クライスト。新共同訳は「キリストに結ばれて」と訳しています。「結ばれる」という日本語には人の心に響く力があり、イエス・キリストと私たちとの関係について聖書が語る豊かなイメージ、たとえば、ヨハネ福音書の葡萄の木のたとえを喚起してくれます。一方、「キリストにある」というと、日本語としてこなれていない感じがありますし、抽象的な印象が伴うと思います。それでも、ほかの訳語に置き換えられない味わいがあると言えるでしょう。まず、単純に、ひろい空間を示しています。また、客観的な事実を示します。私たちはイエス・キリストのうちにある。キリストが私たちのまん中におられるという以上に、私たちが中に入れられている。迷える羊であった私たちは、いま、神の愛のなかに入れられている。そしてこの愛の空間は、ひろく、深く、豊かである。そして頑丈にできている。ひろさと深さを味わい、知るよう招かれています。
きょうの言葉を心にとめましょう。聖書は、「この愛には、恐れがない」と語ります。この愛の中にあれば、恐れはない。恐れを締め出してくれる。
そして、この愛は、「完全な愛」であると語ります。同じヨハネによる手紙には、こう記されています。「神がわたしたちを愛された。ここに愛がある」(4, 10)。
言いかえれば、私たちは完全な愛の中に置かれている。それは、叩いても壊れない、堅固な建物の中にいるのに似ている。雨の日も風の日も、嵐の時も守られている。
この見えない事実を、神様は、ご自分の子をお贈りくださることによって、私たちに知らせておられます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3, 16)。すなわち「私たち」を愛してくださった。クリスマスの出来事、さらに、イエス・キリストの苦難と復活によって、この事実の確かさが証しされています。イエス・キリストの十字架による犠牲は、私たちを守るための真実な羊飼いのみわざであった、聖書はそう証ししています。
いろいろな恐れがありますね。
また、今、私たちは、恐れと不安の時代を歩んでいると言うことができるでしょう。
新しい一年が始まっています。いまは白いキャンバスの上に、これからどんな絵が描かれてゆくのでしょう?
私たちの前にあることは、以前のようではないかもしれません。
気掛かりなことが多くありますね。地球規模の気候の変化。コロナ禍は収束するのだろうか?ウクライナでの戦争によって、世界はどうなってゆくのだろうか?エネルギーの問題と、経済への影響はどうなるのだろう?毎日の暮らしはどう変わるのだろう?
不安になる私たちに、このことが約束されています。「完全な愛」が与えられている。この愛の中には恐れはない。この愛が、恐れを締め出してくれる。なぜなら、神の子が犠牲になるほどに、神が私たちを愛しておられるからです。
ご一緒におぼえて出発しましょう。私たちは冷たい世界に放りだされていません。愛の家に入れられています。たしかな建物の中にいるように、神の愛に囲まれています。