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おお!

投稿者:
とんちゃん
投稿日:
2017年03月24日 12時25分20秒

見やすくなってる〜!
すごーい!

以前の投稿

投稿者:
以前の投稿
投稿日:
2016年09月14日 22時33分30秒

以前に、身体が元に戻らない癒しについて考え質問をしました。
回答をいただいたのですがどうしても疑問が残り、またこちらに同じような質問をし、今2014年の回答を再確認しました。
なので、今回の回答は結構です、質問は削除してください。
貴重なお時間をかけてしまってすみません。
ただ、やっぱりどうしても全能の神に「できないこと」があるような感じがぬぐえません。
神の力を計っているのではなく、ただどうしてか不思議に思います。

以前の回答については納得ができ理解したつもりですが、どうして身体が見た目に大きく変化する癒しについて「ただの一度も」御業が働かないのか。
これはただただ疑問です。

ネット上に書かれる回答はとても気を遣われて労力がいることだろうとお察しします、この回答は不要です。

Meg様へ

投稿者:
匿名
投稿日:
2016年05月15日 14時23分33秒

やっと返信下さいましたね。Meg様、お忙しいところ、ありがとうございます。「匿名さんへ」の御主旨はわかりました。そのことについては後で書かせて頂くとして、お願いがあります。今回新たに、私が以前投稿した、「改革派教会の創立60周年記念宣言についての問い」と「質問を替えます。(脚下しないで!)」の2件をアップして下さいましたが、これらはお手数ですが削除して下さい。他の閲覧者のためにもぜひお願いします。理由は、まず最初(5月3日送信と記憶していますが・・・)の「改革派教会の創立60周年記念宣言についての問い」は、次の「質問を替えます。(脚下しないで!)」の投稿によって文字通り「替え」たのですから無用になったからであり、その「質問を替えます。(脚下しないで!)」も「却下」とすべきところ「脚下」と書くなど間違いがあったので、5月9日に「前の質問の補足(却下しないで!)」を投稿した次第です。ですから、今回アップして下さった2件は削除し、直近で投稿した「前の質問の補足(却下しないで!)」をアップして下さい。よろしくお願い申し上げます。もし、前の2件を削除できないのであれば、5月9日投稿の「前の質問の補足(却下しないで!)」もアップして下さい。そうでないと辻褄が合わないのでお願い致します。

さて、今回の御返信における、「神の国」は「神の支配」とも訳されることであり「場所」を意味しない・・・との御見解についてですが、私もそのように言われる意図、言わば聖書神学的事情のようなことは考慮したうえで投稿しています。また、「神の国」とともに「天(の)国」という表現を用いるのはマタイによる福音書の特徴であるということも聖書の常識だと思います。
ところで私が今回の質問で問題としているのは福音書だけではなくヨハネの黙示録(以下「黙示録」と表記)の終末論における「神の国」です。「宣言」の文脈もそうなっていますし、私の質問の内容も先日送信した「前の質問の補足(却下しないで!)」を読んで頂ければ、次のように書いているので明らかです。

(以下、私が5月9日に投稿した質問内容)
「日本基督改革派教会 創立60周年記念宣言『終末の希望についての信仰の宣言』」というものがありますが、その「4 キリストの再臨と神の国の完成」の「(4)栄光の神の国と永遠の命 創造の回復と完成」のところで、「最後の審判の日に、現在の天と地は過ぎ去り、万物は新しくされ、神の裁きによって罪と汚れから完全にきよめられた新しい天と地が現れ、神の国は栄光の王国として完成されます。被造物は、今や虚無と滅びへの隷属から解放され、回復され、完成に至り、神の栄光に満たされます。」とあります。そこで1つめ質問です、「現在の天と地は過ぎ去り」と言われておりますが、どこへ行くのでしょうか?ただ消えてなくなるという意味ですか?
2つめの質問、「新しい天と地」と「神の国」とはどのような関係にあると考えられているのですか?同じものですか?

黙示録の表象には場所的なイメージもあると思います。むしろそのような形而上的色彩が強いのが黙示文学的特徴でしょう。もちろん新約聖書全体の読み方としては他の文書、特に福音書におけるイエスの「神の支配」と黙示録における「千年王国」や「新天新地」なり「新エルサレム」などとの関連は言うまでもありませんが、各文書の独自性も認められます。福音書(特に共観3書)におけるイエスの発言にはそれぞれの文脈があり、一概に「神の支配」と訳せばよいとか「場所・領域」の意味はないとは言いきれないのではないでしょうか?
聖書学者の中にも、「バシレイア・トゥー・セウー」の「バシレイア」には「支配・統治」と訳す方が適している場合と「(王)国」と訳する方が適している場合とがあることを指摘する人もいます。特に現在すでに働いているプロセスを示す場合は「神の支配」と訳す方がよいが、それが将来、完成し現前化する場合は「神の(王)国」と訳す方がよいと言われます。
ちなみに、G・ヴォス著上河原立雄訳『神の国と教会』(聖恵授産所出版部)では次のように書かれています。
「イエスにとって、神の国は来るべき神の支配に伴う、全ての祝福と特権を含んでいるから、この言葉が具体的な意味を帯びてくることはさけられない。本来の意味である『支配』から、『領土、人民の総体』を示すものでなくても、少なくとも『領域』、すなわち、『人生の領域』、『物事の領域』等、いくらか場所的色彩を帯びたものとなり始めた。たしかに、このような具体的意味があるから、『御国』は神のものであり、神によって進展させられるという表現も生れてくる。そして、その場合、もはや『神の国』を『神の支配』、と訳すことは適当でない。事実、福音書を一読すると、イエスが神の国について語られたすべての場合に、抽象的な意味、すなわち、『支配』、『統治』という訳語を一貫して用いることは、全く不可能であることが分る。」(p21~22)
以上のように、福音書におけるイエスの言葉にさえ「バシレイア」を「支配・統治」といった訳よりも「(王)国、領域」といった場所的意味の訳語の方が適している場合があるのですから、黙示録の終末論的文脈においてはなおさらであると言えます。
なお、上記の引用で「人民の総体」とありますが、これは単に御指摘の(キリスト・神の)「支配のもとに生きる人たちの集まり」という意味にとどまらないことは、これも前後の文脈から明らかです。
要するに、「バシレイア・トゥー・セウー」を「(王)国、領土」といった場所的イメージで理解することを忌避する傾向は、いわゆるリベラル派の特徴であることが上掲書の内容から読み取れると思います。たしかに中世のカトリック教会で普及されたといわれる「天国と地獄」のイメージのように死後の世界を絵画的に思い描いて、「神の国」はその「天国」と同一だと思い込むことはプロテスタントの信仰として問題なしとは言えないでしょう。しかし改革派教会の教理でも「中間状態」とか「最後の状態」はある種の「場所・領域」的イメージで語られており、死んだ信者の魂は天国で祝福された状態にあると言われています。中間状態の彼らはまだ約束の地を所有していないとか体を有しないなどの限定はありますが、イメージとしては「場所・領域」です。ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮偏・訳『ウェストミンスター大教理問答書講解』(聖恵授産所出版部)では、死んだ信者の魂が受け入れられる「最高の天」の「天」について、「聖書は、天とは神の栄光が特にあらわれている場所であり、私たちの救い主イエス・キリストが栄光化されて人間性をもって、現在生きておられる場所であることを、明確に教えている」と述べています(p327)。「天」がそのような「場所」として言われているのですから、「神の国」もこうした「場所」的意味が教理的に認められるのではないでしょうか?むしろ、「神の国」から「国」といわれるような場所的、領域的イメージをいっさい排除しなければならないということになると、信者の中には抽象的で理解困難に思う人々も多く出てくるように思われます。
要は程度問題でしょうね。中世カトリックにおける「天国」イメージのように、あまりに具象化した絵画的な表現に傾いてもよくないが、リベラル派のように神話的表象を軽視することもいかがなものかと思うのです。このへんのところは一信徒の私にはこれ以上、踏み込めないことなのでこれで控えます。

私の質問の3つめは、月間レムナント誌主筆の久保有政氏の説についてのものでした。これは久保氏の説を批判の俎上にのせる意図ではなく、自分が質問する上でわかりやすい実例として挙げたまでです。何を質問したかったのかと言えば、プロテスタントの、同じ福音派に属する立場からの、黙示録における「神の国」についての理解と、改革派教会の立場との異同です。改革派教会の「神の国」(特に黙示録の文脈における)の教理を漠然と問うよりも比較の対象がある方がわかりやすいと思ったからです。その点で久保氏の「レムナント」の教理解説はわかりやすく、「セカンド・チャンス」説に代表されるように(賛否があるものの)定評があるので、福音派の聖書解釈として実例にするには適していると判断した次第です。
私見では、久保氏は聖書をバランスよく解釈されるので、個人的には参考にさせて頂いているのですが、「神の国」についても一方では御指摘のような、場所的な意味ではとらえられない面を語っておられ、しかしもう一方では、下記のように場所的なイメージの表現が適する面も語っておられます。
「目に見えない現在の天国は、新天新地では目に見える新天新地と合体して、目に見える具体的な世界となるのです。それは目に見える天国 目に見える御国 目に見える神の国です。そこには、神様とキリスト様が住んでいらっしゃいます。人々は新エルサレムに出入りし、親しく神様と交わるでしょう。」
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/090kurisu.htm

その他の引用は、すでに5月9日送信の質問内容と重なるのでここでは書きませんが、久保氏がコロサイ書2章17節の「来たるべきもの」を「神の国」と解釈しておられることについての御見解を問うています。
これについては個人の聖書解釈を批評したり批判することはこの掲示板の趣旨にふさわしくないといったこともあるでしょうから、無視されてもよいのですが、改革派教会では信仰基準にもとづき、聖書解釈は大体、統一されているはずなので、参考までにお尋ねした次第です。コロサイ2:17の「来たるべきもの」は、改革派教会では何を意味すると考えられていますか?これが3つめの質問であり、上記の2つの質問とあわせて、ぜひ、お答え願いたいと存じます。以上




匿名さんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2016年05月15日 01時18分30秒

回答が大幅に遅れ、申し訳ありませんでした。

「神の国」について、60周年宣言や他の先生のご意見に言及する前に、聖書の言葉遣いから、基本的な意味をご説明します。

神の国は、ルカ17:20-21によれば、「どこか」に場所があるのではありません。「神の国」という言葉は、「神の支配」を意味します。マタイによる福音書で「天の国」と書かれているのは、神の名をみだりに唱えてはならないという教えを固く守っているユダヤ人に配慮して、神を「天」と言い換えているためで、これもまた、場所のことを言っているのではありません。

では「神の国」とはどのように現れるのか。
それは、イエス・キリストを自分が従うべき王だと信じる人の心とその生き方に現れてきます。そのように生きている人の集まりが王国を形成します。(これは残念ながら地上の教会とイコールではありません。クリスチャンと言いながらも、自分が一番であるかのように生きている人がおられたりするからです。)

私たちは主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。
「御国に行かせてください」とは祈りません。
このことからも、「神の国」がどこかの場所のことではないことがわかります。「御国を来たらせたまえ」と祈るのは、「今日もイエスさまを王として仰ぎ、従うことができますように」、「キリストの僕としてふさわしく生きることができますように」、「イエスさまが十字架の上で私たちに赦しを与えてくださったことを想い、その愛と赦しによって私たちに与えられた平和を、今日も隣人と共有し、主の平和の御支配の中で生きることができますように」…という祈り願いがあるからです。

「神の国」がどこかにある場所のことではなく、「神の支配」「キリストの支配」の意味であるということ、あるいはその支配のもとに生きる人たちの集まり、という理解で、もう一度60周年宣言などを読んでみられてはいかがでしょう。

お尋ねの3点への直接的回答ではありませんが、ご参考になさってください。

前の質問の補足(却下しないで!)

投稿者:
匿名
投稿日:
2016年05月11日 12時38分20秒

この前の、改革派教理における「神の国」とは?という質問の仕方では漠然としていると思うので補足します。今回は、改革派教会の「神の国」に関する発言の実例をあげ、これについて具体的におききします。これは却下しないで下さい!お願いしておきます。

「日本基督改革派教会 創立60周年記念宣言『終末の希望についての信仰の宣言』」というものがありますが、その「4 キリストの再臨と神の国の完成」の「(4)栄光の神の国と永遠の命 創造の回復と完成」のところで、「最後の審判の日に、現在の天と地は過ぎ去り、万物は新しくされ、神の裁きによって罪と汚れから完全にきよめられた新しい天と地が現れ、神の国は栄光の王国として完成されます。被造物は、今や虚無と滅びへの隷属から解放され、回復され、完成に至り、神の栄光に満たされます。」とあります。
そこで1つめ質問です、「現在の天と地は過ぎ去り」と言われておりますが、どこへ行くのでしょうか?ただ消えてなくなるという意味ですか?
2つめの質問、「新しい天と地」と「神の国」とはどのような関係にあると考えられているのですか?同じものですか?

ちなみに、月間レムナント誌主筆の久保有政氏は次のように説いておられます。
「地上のクリスチャンたちは天にある神の国の『大使館』であり、『天国』が神の国の『本国』です。では、この『大使館』『本国』は、将来どうなるのでしょうか。キリストが、『神の国は近づいた』と言われた時、その『神の国』とは、天にある神の国(天国)をさしました。天にある神の国は、やがて定められた時に、地上に降りてくるのです。天の神の王国は、やがて地上に降りてきて、地上世界と一体になり、地上世界を『吸収合併』するでしょう。地上世界は、上から『神の国』を着せられ、古い汚れたものは、すべて中に呑み込まれ、消え失せてしまうでしょう。地上世界は、栄光に輝く『神の国』を上から着せられて、新しく生まれ変わるのです。神の国は地上世界に下りてきて、地上世界をおおい、それを『吸収合併』するのです。地上世界のすべての事柄を建て直し、そこを神のみこころが実現した世界となすでしょう。」
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/025kaminokuniwa.htm

「新天新地には、真ん中に新エルサレムがあります。これは『天のエルサレム』とも呼ばれる現在の目に見えない天国が新しい地に降りてきたものです(黙示二一・二)。目に見えない現在の天国は、新天新地では目に見える新天新地と合体して、目に見える具体的な世界となるのです。それは"目に見える天国""目に見える御国""目に見える神の国"です。そこには、神様とキリスト様が住んでいらっしゃいます。人々は新エルサレムに出入りし、親しく神様と交わるでしょう。」
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/090kurisu.htm


久保氏は次のようにも述べておられます。
「来たるべき天国=天の神の国の本体は、キリストご自身なのです。」
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/025kaminokuniwa.htm

これは、コロサイ書2章17節の「来たるべきもの」を「神の国」と解釈することによって言われているのです。
そこで最後の質問は、これについてどのような見解か?ということです。「来たるべきもの」とは何だと思いますか?「神の国」ですか?そしてその「本体」がキリストなのですか?
もし「神の国」の「本体」が「キリスト」だというのであれば、それは具体的にどういう意味かご説明願います。

以上、3点についてお教え下さい。

改革派教理における「神の国」とは?

投稿者:
匿名
投稿日:
2016年04月23日 20時38分18秒

現在、聖書を読んでいて「神の国」について考えさせられています。改革派教会の神学では、「神の国」とはどのようなことであると理解されているのでしょうか?
ウェストミンスター信仰基準の終末の教理では、「神の国」についてのことがあまり語られていません。「神の国」は死後の世界なのか、それともこの世の事柄であるのか、このへんのところを、改革派神学に基づいて教えて下さい。よろしくお願い致します。

掲示板 修正しました

投稿者:
管理人
投稿日:
2015年12月03日 22時13分42秒

掲示板のページ送り機能に不具合がありましたので修正しました。
御指摘ありがとうございました!

掲示板がおかしいよ

投稿者:
レムナント
投稿日:
2015年12月03日 22時09分09秒

掲示板がおかしいですよね。1から9までクリックしても同じ内容ではないですか?出ている人もヨアブさん、sonar_fisxさん、匿名さん、有又屋さん、三並さんと同じじゃないですか?ほかにもこの掲示板の参加者はいたはずです。いったい、どうしたっていうんですか?

ヨアブさん(=愛用者様)へ

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年08月24日 22時26分13秒

ヨアブさん、ご質問とお問い合わせページからのご指摘、ありがとうございました。なかなか難しいご質問でしたので、回答を用意できてから、ご質問と合わせてアップする予定でしたが、回答がまだ用意できておらず、お待たせしております。なんとかお答えしたいと思っておりますが、今少しお時間をいただきたく、ご了承くださいますよう、お願いいたします。

父子同等の教理に関する質問

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2015年05月29日 13時16分08秒

御子と御父とが同等であるということについてお教え願います。

ニカイア信条では「御父と本質を同一にして」(΄ομοούσιον τωι πατρί )と、「同じ」という言葉が使われ、アタナシオス信条では「その神性によれば父と等しく」(Equal to the Father, as touching his Godhead)と、「等しい」という言葉が使われていますが、これは同じことを言い表しているのでしょうか?

原語と訳語の違いもあるでしょうが、この場合、「同質」と「等質」とは同じ意味ですか?

問題はその聖書的根拠です。
ウェストミンスター大教理問答の問9では、「神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。」とあり、「同等」の根拠としてはヨハネ10:30だけのようです。

聖書には、ニカイア信条の主要用語である「ホモウーシオス」という言葉そのものは無いことはわかっていますが、教会の信仰告白である以上、その根拠となる箇所はなければなりません。

さて、聖書の中で、御子と御父とが「同質」なり「等質」であることを示す箇所を教えて下さい。そのように解釈できることばを教えて下さい。
ある人は、ヨハネによる福音書10:30とか17:22(の「一つ(ヘン)」)を挙げておられますが、これだけですか?これが御子と御父が「同質、等質」であることの根拠聖句になるのでしょうか?「一つ」とは言っても、何が「一つ」であるのか具体的にはわかりません。本質とか実体が同一という意味にもとれますが、意志の一致という意味にもとれます。御子と御父との極めて親しい関係を象徴的に表わしているだけかも知れません。

ちなみに、フィリピ2:6では「等しい(イソス)」が使われていますが、何が「等しい」かは明らかではなく、しかも御子キリストは、父なる神と「等しい」ことに固守しなかったのだから根拠聖句にはならないと思います。