目には目を 歯には歯を

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聖書の言葉

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」

新約聖書 マタイによる福音書 5章38~39節

牧野信成によるメッセージ

山上の説教の中で、主イエスは『目には目を、歯には歯を』という旧約聖書の言葉が引用されました。一般にもよく知られていますように、この掟は「同害復讐法」もしくは「タリオ法」と呼ばれまして、復讐に関する古代の法律だと理解されています。そして、あっさりと「野蛮だ」などと評価されてしまう傾向もあります。しかしこれは、「やられたらやりかえせ」と復讐を命ずる掟ではなくして、法に基づいた償いの方法でした。

この規定の根底には、「命には命をもって償う」という思想があります。人の命はモノでは贖えないという、命の尊厳を最大限に認める聖書の神の教えです。何故、人の命がそれ程、尊いのかといえば、そもそも人間は自然の中から偶然発生したのではなくて、神が特別な配慮をもって創られたのであり、さらに神がご自身のかたちを与えておられるからだ、と旧約聖書の創世記は記しています。ですから、人間の命を損なう者は、人間にではなくて神に対して、命をもって償いをすることが要求されます。人の命は神のものです。

また、「目には目、歯には歯」と、そこで被害を受けた隣人の身体と自分自身の身体を鏡に映す様に照らし合わせることによって、「自分自身のような隣人」をそこに見出すようにされます。レビ記という書物では、「目には目を、歯には歯を」という教えと、「隣人を自分のように愛せ」という教えが密接に結び合っています。

そのように、「目には目を、歯には歯を」という規則は、第一に、決して怨念を晴らすための道具ではなくて、世の中に正義と憐れみを実現するための、神から示された、人道的な教えでした。尤も、これを個人的な復讐を正当化するために人が勝手に利用する、ということは幾らでも起こり得ます。

しかし、イエスは「悪人に手向かってはならない」と言われます。これは「復讐の禁止」というよりも「抵抗の禁止」です。少し文言に拘りますと、「目には目を」とありますのは、「目に対しては目を」という言葉遣いでして、それに合わせて、「悪に対してはならない」とあるわけです。相手に合わせるな、立ち向かうな、というのです。どうして無抵抗にならねばならないのか、その理由は述べられていません。

そこで私たちは戸惑います。悪に立ち向かうことを止めてしまうのならば、私たちの社会は滅茶苦茶になってしまうのではないか、正義も公平も全く実現されないではないか、という当然の疑問が湧いてきます。

しかし、イエスの教えは、初めから常識に適った倫理を伝えようとしてはいません。悪をもって悪に返さず、ということならば、ギリシャの哲学者プラトンでも、旧約の教えを大切にしてきたユダヤ教のラビたちも、同じように語っています。「不正に耐え忍ぶ」ということと、「正しい復讐を承認する」ことは、互いに相対立するような内容に思えますが、実際はこの二つが両立して人間社会は保たれています。しかし、イエスは、こういうジレンマには関わらずに、天から遣わされた方として、「抵抗するな」と一方的に語ります。

ここでは、「目には目、歯には歯」という原則が、イエスの言葉と業によって新しく語りなおされます。すなわち、片目を奪われたらもう一つの目を差し出しなさい、上の歯を奪われたら、下の歯も差し出しなさい、というように、相手が受けるべき神の報いを、自分のものとして積極的に受けなさい、というのです。

右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい、などとは全く浮世離れした呼びかけです。しかし、それは当然です。ここにあるのは天に属するものの倫理であって、神の国における人の在りようです。ですから、この世の実情に合わせた理解では、到底近づけない教えなのでして、主イエスだけがまずは辿りえた、これは神の義の道筋なのです。

ここに与えられた命令は、ですから「主義」というようなイデオロギーにはなりません。これは、生ける言葉の働きです。主イエスが実現し、私たちを招いておられる、新しい人の生き方の上に、徐々に見えてくる聖霊の業です。原理ということで言いますと、この言葉に表された主イエスの主張は完全に平和主義であり、完全に非暴力なのであって、それをこの世界の実情に合わせて割り引いて捉えようとするのは誤りです。私たちはこの言葉をいただいて、ここに表された義を既に果たしたものとさえ認めていただいて、この言葉を命として、ここに憩い、ここに生かされるようにされました。私たちの信じた信仰はそういうものです。

罪から逃れられないでもがくこの肉体に、主イエスのこの言葉が宿って、行く道を示していてくれます。この過激な神の国の教えが、どう私を生かし、どう私たちの教会を動かし、どのように社会に光をもたらすかは、すべてが明らかであるわけではありません。ただ覚えたいのは、この言葉によって、私たちは、この世界に何とか秩序を保っていくための妥当な知恵を与えられているのではなくて、私たちのうちに宿るこの言葉が、社会と生活を絡め取っている復讐と暴力の連鎖を断ち切る楔として、常に機会をうかがっているのだということです。

天の父なる御神、あなたの愛から遠ざけられた者たちの、復讐を叫ぶ声が、断罪を求める声が、私たちの社会に罪の呪いとして降りかかっています。逃れようもなく、私たちの心も、満たされない思いをこの世の何ものかで償わせようと煩います。どうか、主イエス・キリストに示されたあなたの御支配を私たちにお与え下さり、報復を求めず、主の愛と忍耐によって、いつも喜びを保つことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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