肉の命と霊の命

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聖書の言葉

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。

旧約聖書 創世記 1章27節

大野桂一によるメッセージ

本日は、人の命について聖書に聴きたいと願っています。

新約聖書のマタイの福音書は(16:26 )「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」と人の命の尊さを記しています。

旧約聖書の最初にある創世記は、今からざっと3000年前に、それより以前からあった話しをまとめたもので、そこには、神が最初に天と地とそして総ての生き物を創られ、最後に人を神にかたどって創られたと記されています。人は神にかたどって創られたから、人の命は尊いのです。

超科学的・合理的な21世紀に生きておられる皆様は、そんな古代人が考えた創造の話など信じることは出来ない。科学や技術の進展により、今まで分からなかった事が、次々と実証され解明されてきた。人の理性や知性により確認できる事のみが、真理であり確かなことであると考えておられるかもしれません。

それでは何故、人には理性や知性、心、人格、霊性があるのでしょうか。魂があるのでしょうか。死んだ後も、天国へ行くのではないかと永遠に憧れるのでしょうか。

その根拠をあなたは実証できますか。

人の誕生を見た者は誰もいませんが、古代人は、人は他の動植物と何処か違うことに気付いていました。その古代人に神がご自身を表されたのが、創世記に書かれている創造のお話なのです。

天地創造の話しは、人が作った単なる作り話ではなく、神が、神と人間の関係や他の動植物と異なることを示して下さった、神が啓示して下さった人の誕生の真理なのです。

創世記 1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。

とあります。神は霊であり、形はなく見ることも出来ません。どんな意味でかたどって創造されたのでしょうか。それは人が自分自身の自由意志をもって、霊において神と交わる事が出きるように、神と人格的に交わるパートナーとして、霊である神にかたどって、霊的な命あるものとして創造されたと言う事です。

他の動物が本能的に生きるのとは明らかに違って、人は霊的な命に生きる者として創られました。神と交わり神の御心に従って、この世界を管理して、神の栄光を表す為に人は創造されたのです。

2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

とあります。一方人は、他の動植物と同じように土で、即ち物質を素材として創られました。人の肉体は、他の動植物と同じ素材で創られており、自然環境には動植物と同じように影響を受け、肉体も滅んでいきます。しかし、最も違う点は、人にだけ、神はご自分の命の息を吹き入れられました。

神は霊であり、その神が命の息を吹き入れられたと言う事は、また神にかたどって創られたということは、人は霊性を与えられたと言うことです。霊において神と交わって、初めて人は生きていると言えるのです。人の命は動物と同じ肉体的命と、神との交わりに生きる霊的な命と二つの側面があるのです。人はこの肉の命と霊の命を一体して生きているのです。

創世記によると、最初の人アダムが神に背いて罪を犯し、神と共に住むべきエデンの園を追い出されたのです。そして神から離れ、自分をあたかも神のようにして、自分の利益ばかり考える自己中心的なエゴを持つ者となったのです。

私達はどうでしょうか。たとえ規則はちゃんと守り、礼儀正しく、他の人に思いやりがあり、自分のことは自分で責任をもってなし、積極的に愛の社会貢献に励み、人間的に観れば、大変人格者であると尊敬されたとしても、心の底に名誉を得たい等のエゴは隠されていないでしょうか。全くエゴの罪のない人がいるのでしょうか。

最初の人アダムの堕落以来、私達人間は誰でも自己中心性と言う罪をもっているのです。これを逃れることは出来ません。この自己中心性が発展すると、他人を軽視し、無視し、自分の絶対化が始まります。

自己を神の立場に置き始めるのです。私達は、愛そうとしても愛しきれない、信頼しようとしても信頼出来ない、自己中心的な罪を持っているのです。少しでも罪ある者は、全く聖く正しい神と交わることは出来ません。

そのような罪ある私達を、神は尚愛し、神との交わりを回復させるために、神の御独り子イエスをこの世に遣わし、私達の罪をイエスに担わせ、十字架に架けて処分し、罪ある私達を、正しい者義人として見做して、神との交わりを回復する道を拓いて下さったのです。

私達のこの肉の命は、遅かれ早かれ、滅んでいきます。この肉体は土に帰って行きます。その時私達は、この世の肉的なものは総て剥ぎ取られて、裸の霊の命でただ一人で聖い神の御前に立つのです。

キリストを信じている人は、キリストの十字架において、既に罪は処分され、罪なき者と見做して下さっていますから、正しい者義人として神の御前に立つことが出来るのです。

天国とは、神の国です。神が居られ、しかも神が王として支配されている国です。その天国にて神と交わることが赦されているのです。

天国においてだけでなく、私達はキリストを信じることによって、どんな罪も赦され罪なき者として、この世にあっても天国においても、神との交わりに生きる者とされるのです。神と共に永遠に生きることが出来るのです。

イエスはあなたに問われています。(ヨハネによる福音書 11:25~26 )「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と。

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