自分を捨てて、イエスに従う

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聖書の言葉

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

新約聖書 マルコによる福音書 8章34~35節

宮﨑契一によるメッセージ

新約聖書、マルコによる福音書の中の主イエスの言葉に、ご一緒に聞きたいと思います。イエス様はここで、自分を捨ててわたしに従いなさい、とおっしゃいます。私たちも知っておりますように、イエス様ご自身が、十字架に向けての歩みをされました。ご自分を捨てる、命を捨てる歩みを、まずイエス様ご自身がなさいました。そして、その主イエスが、あなたがたも自分を捨てて、わたしに従いなさいとおっしゃるのです。

ですから、ここでイエス様は紛れもなく、命を捨てるほどに私について来なさい、とおっしゃっているのです。このように聖書に書かれていることに、私たちは戸惑いを覚えるかもしれません。なぜ、そこまでして、この人に従っていかなければならないのだろう。自分のため、というのであればまだしも、なぜ、他のことのために命を捨てなければならないのか。そういう疑問を持つのではないでしょうか。

確かに、主イエスはここで、命を捨ててわたしについて来なさい、とおっしゃいます。けれども、イエス様は、何もむやみやたらに命を捨てなさいとおっしゃるのではないのです。とにかく、あなたの命を捨てなさい、全部私のために献(ささ)げなさい、そうすればあなたは救われる、と言われているのではないのです。

イエス様がここでおっしゃっていることは、「わたしのため、また福音のために命を失う者は」ということなのです。まずは、何が何でも命を捨てなさい、ということではなくて、わたし(イエス・キリスト)がある、福音がある、そうであるのだから従いなさいと言われているのです。イエス・キリストが福音だと言われている。その福音があるのだから、そういうふうに従いなさい。ですから、ここで言われているのは、その福音が、私たちにそのように従わせるということなのです。

では、福音とは何でしょう。それは、その言葉が示す通りです。喜ばしい知らせ、よい知らせ。その喜ばしい、よい知らせが、私のところに来た、ということです。では、その福音という喜ばしい、よい知らせ、というのはどれほどの良い知らせなのでしょうか。ある牧師が、福音についてこのようにおっしゃいました。

絶望に瀕している人が、どこからか救いは来ないか、と待ち望んでいるところに、君は救われたぞ、という知らせが来る。それが福音ということだ。死刑囚に対して、赦免の知らせが来る。それが、救いである。

これが福音であると、その牧師は言いました。死刑囚に対して、赦免の知らせが来る、と言いますといかにも大げさな感じがするかもしれません。自分は、そのように死刑囚とされるような罪は何も犯していない。とんだ言い掛かりだと思われるかもしれません。

しかし、聖書が言っておりますことは、私たち人間の中には、どんなに私たちが頑張って拭い取ろうとしても、それを拭い取ることのできない罪があって、そういうものが私たちの中にある限り、それは文字通り死刑囚のようなものである、ということなのです。後は、死の宣告を待つだけ、なのです。

私たち人間の中には、そのような非常に深い罪という闇があります。私たちも、その全てを知り尽くすことができないような闇です。いつの時代でも、親が自分の子供を殺す、または、子供が自分の親を殺してしまう、という悲惨な事件は後を絶ちません。また、人間同士が憎しみ合って生きていく。たとえ、私たちがそうしたくはないと思っていても、いつの間にか、そのような憎しみや妬みが湧き上がってくる。

聖書は人間にはそのような罪があって、知らず知らずの内に神に背くことはもちろん、人間同士でも憎しみ合って生きている、というのです。しかし、そうであれば、その人間のところに、赦免の知らせが来た、赦しが来た、君は救われたぞ、という知らせが与えられたらどうでしょう。その赦しを受けた人は、全く新しい人生を送るはずなのです。

そのように、それまでとは違う全く新しい人生を生きることになるのであれば、私たちは、イエス様が自分を捨ててわたしについて来なさい、とおっしゃることも分かるのではないか、と思うのです。それは、福音のために命を捨てるほどの歩みをさせるその福音が、あまりにも素晴らしいからです。その赦しが、それほどの、感謝と喜びに人間を生かすものであるからです。

イエス・キリストは、その人間の罪の赦しのために、十字架への道をひたすら歩まれました。時の権力者たちの迫害に遭いながら、最後には周りに集まっていた群衆たちからも裏切られ、あるいは、主イエスの弟子たちの無理解ということがありながらも、御自身は決して道を逸れることなく、十字架への道を歩まれました。それは、全て罪の赦しのため、福音のため、でありました。

この福音に是非触れていただきたい。そして、もう自分が中心となって生きるのではなくて、頼りない自分を捨てて、イエス・キリストのために生きていく、そのような人生を共に送りたいと教会は願っております。是非、教会にお越しください。

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