絵画と信仰

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聖書の言葉

主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

旧約聖書 創世記 2章7節

吉田実によるメッセージ

しばらくお休みさせていただいておりました「絵画と信仰シリーズ」を、また心新たに始めさせていただこうと願っています。今朝は、17世紀のスペインで活躍いたしました画家、ベラスケスの作品について、お話させていただきます。

ベラスケスはスペイン絵画の黄金時代でありました17世紀を代表するリアリズムの画家で、20代前半からその実力が認められ、国王フェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年間、宮廷の人々の肖像画や王宮を飾るための作品を描き続けた画家です。そんなベラスケスの代表作のひとつに、「ラス・メニーナス(女官たち)」という題の大作があります。フェリペ4世の愛娘の王女マルガリータを中心に、彼女に仕える女官たちや、絵を描いているベラスケス自身の姿、そして画面の一番奥の壁に掛かっている鏡には国王夫妻の姿がぼんやりと映っているという、色んな解釈が出来そうな、少しなぞめいた、でもとても美しい作品です。そしてその絵の中に、女王マルガリータとは対照的に、すこし体のバランスが不自然な、頭の大きな女性が描かれています。彼女は宮廷わい人の一人マリー・バルボラという人であることが分かっています。宮廷わい人とは、当時のヨーロッパの宮廷で道化師などと共に集められていた障害を持った人たちのことです。その多くは成長段階に障害のある人たちで、大人になっても子供くらいの身長しかない人たちでした。初めは慈善的な精神でそういう人たちが宮廷に集められたとも言われていますし、宮廷の人々から寵愛を受けたというような記録もありますけれども、大変ひどい話ですが、実際には彼らは生きた人間の「おもちゃ」と見なされていたとか、王子や王女がなにか悪いことをしたときには、彼らが代わって体罰を受けたとも伝えられています。そして宮廷の人たちは、そういう人たちの姿を見て優越感に浸り、王家の人々の肖像画にそういった人の姿をそえることで中心人物を引き立てるということは、当時よく行われていたことです。そういう意味では、この女性の宮廷わい人マリー・バルボラの存在は、王女マルガリータの花のようなかわいらしさ、美しさをより一層引き立てるために描かれていると言うことが出来るかもしれません。けれども、私はこのベラスケスの眼差しは、そのようないやらしい、人をモノかペットのように見下すような冷たく残忍な眼差しではなくて、もっと温かくて、愛情に満ちた眼差しであると思うのです。その証拠に、ベラスケスは王家の人々だけではなくて、自分の意思で、宮廷の道化師やわい人たちの肖像画も少なからず描いているのです。そしてその姿は、ある意味で正直に、彼らの身体的特徴をそのまま描いているのですのですけれども、その眼差しは決して冷たいものではなくて、一人の尊厳ある人として、生き生きと、また堂々と、彼らの姿を描いているのです。ベラスケスが、宮廷わい人の一人セヴァスチャン・デ・モーラという人を描いた肖像画があります。その短い手足は、彼の身体的特徴を美化せずありのままに伝えています。けれども、その堂々とした鋭い眼差しは、ある意味で国王以上の意志の強さを表し、風格さえ感じます。ベラスケスは、王家の人々も、道化師や障害を持った人々も、同じ神様に造られた人間としての尊敬と愛情を持って見つめ描いたに違いないと、私は思います。

現代の私たちは、ベラスケスが生きた時代の宮廷の人々のような目で障害のある方々を見つめたりは決してしないと思います。そんなことは絶対にしてはならない、ひどいことであると分かっています。けれども、人と自分を比較して、いろんな意味で自分のほうが優れている、自分のほうが勝っている、そう思って安心したい。逆に、自分のほうが劣っていると思うと落ち込む。そういう思いにとらわれてしまうということは、私たちにとっても無関係とは言えないのではないでしょうか。けれども聖書は、その人が何が出来るか、何を持っているか、どういう身体的・精神的特徴があるか、そういうこととは関係なしに、人は神様に似た者として造られ、神様によって命の息を吹き入れていただいて生きるものとなった。そういう特別な、尊厳ある存在であることを教えてくれています。ありのままのわたしが、ありのままのあなたが、その存在そのものが、かけがえがなく尊いのだということ。わたしがここにいること、そしてあなたがそこにいることは、とっても良いことなのだということ。ベラスケスの眼差しは、このことを今一度私たちに思い出させてくれる。そういう眼差しであるように、私には思えるのです。

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