分かち合う喜び①

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聖書の言葉

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 2章3,4節

吉田実によるメッセージ

只今お読みいたしました聖書の箇所は、パウロという人がフィリピという町にある教会の人たちに書き送りました手紙の一節なのですけれども、その中に「互いに相手を自分よりも優れたものと考え」という言葉があります。これは能力や才能のことを言っているのではありません。たとえば、100メートルを10秒台で走るランナーが、11秒台の選手に向かって「私はあなたにはかないません」と言ったら、それは謙遜ではなくて嘘です。ですから、この言葉は能力や才能のことを言っているのではなくて、「存在の大切さ」において、相手を自分よりも優れた者、大切な人と考えなさい、ということなのです。果たしてそんなことが可能でしょうか。

ここ数年私たちの教会では赤ちゃんが続けて生まれてとても嬉しいのですけれども、赤ちゃんはある意味で「究極のわがまま」とも言える存在だと思います。泣きたいときに泣き、したいときにおしっこやウンチをして、お腹がすいたらお母さんの都合などお構いなしに泣き叫んでおっぱいを求めるわけです。そしてお母さんはそんな赤ちゃんを育てるために、自分が行きたいところにもいかず、やりたいことも我慢して、自分の大切な時間とエネルギーを費やしながら子育てをするわけです。でも、そんなふうにして大切に赤ちゃんを育てているお母さんの姿は、輝いていると思います。逆に言えば「わたしはこの子の犠牲になど、なりたくないわ!」と言って、育児を放棄して自分のしたいことをするような母親は、いくら綺麗に着飾っていても輝いているとは言えないと思います。自分のことよりも赤ちゃんの方が大切だと思うから、母親は自分のことを犠牲にしてまで赤ちゃんに仕えるのであって、そういうお母さんの姿は輝いていると思いますし、そこには苦労があっても、母親としての本当の幸せがあると思うのです。そしてそれは母親だけではなくて、実は人間全てに言えることなのではないでしょうか。人は他の人のために自分を捧げて生きるときにこそ、人として輝く。そしてそこにこそ、本当の喜びもあるのです。反対に、存在の大切さにおいて他人よりも自分の方が大切だと考える、ゆえに平気で他人を蹴落とそうとする。そういう生き方をする人は、人として落ちてゆくのです。

かなり前のことですけれども、北海道のある食堂で、4人の知的障がい者が10数年から30年間にわたって、給料も支給されずにその店の主人にこき使われていたという事件がありました。男女あわせて4名の知的障がい者がその店に住み込みで働いていたのですけれども、その店の主人はそういう障がい者を受け入れるときにもらえる補助金だけではなく、彼らが受け取るべき障がい者年金なども全部自分のふところに入れて、その上彼らに給料を一切支払わないでただ働きをさせていたのです。週に一度、銭湯に行くためのお金390円を渡していただけでした。休みは月に2日だけで、朝7時から夜10時までほとんど休みなく働かされて、作業が遅かったり失敗したりすると怒鳴られ、たたかれ、食事は残り物を立ったままで少し食べるだけで、仕事中にトイレに行くだけでも怒鳴られるというような劣悪な環境の中で、彼らはずっと我慢を強いられていたのです。本当にひどい事件でした。けれども、そのような悲惨な事件の中で、心温まると申しますか、ほっとするような出来事もありました。それは、3人の女性たちが、週に一度銭湯に行く日を楽しみにして一緒にお風呂屋さんに通ったそうですけれども、そのときに3人のうちの一人が順番にお風呂に入るのを我慢して、その浮いた390円で3本ジュースを買って一緒に飲んでいたということです。それが彼女達の唯一の楽しみだったのです。彼女たちはそんなひどい扱いを受けながら1週間働いて、やっともらった390円を、3人で分かち合っていたのです。このことを知ったときに私は心が洗われるような思いをいたしました。そして思いました。こんなひどいことを平気で何十年も続けて私腹を肥やしていたこの店の主人と、この与えられたわずかなものを分かち合いながら共に生きていた障がい者達と、どちらが人間らしいか。それは言うまでもないことです。やはり人は、その存在の大切さにおいて、他人より自分の方が大切だと考えて生きるときに、人として落ちてゆく。逆に、自分よりも相手を大切にして、奪い合うのではなく分かち合って共に生きるときに、人は人として輝くのだと思います。何故なら、人間は神様によってそのように助け合い支え合い、共に生きる存在として最初から造られたからです。「互いに相手を自分よりも優れた者と考える」ということは、実現不可能な綺麗ごとなどではなくて、人間が人間らしく生きるために決してはずしてはならない大切なポイントなのです。私たちの為に命を捧げて下さったイエス・キリストの愛の光に照らされるときに、それは少しずつ私の現実となるのです。

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