言葉によって造られた

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聖書の言葉

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章1節

弓矢健児によるメッセージ

聖書は、この世界のすべての物、天地万物が、神によって創造されたと教えています。海も山も、空の鳥も、野の花も、私たち一人一人の命も、決して偶然に存在しているのではありません。すべての物は神によって創造されました。

さらに、本日のヨハネによる福音書1章3節を見ると、「万物は言葉によって成った」と記されています。つまり、この世界の天地万物は、神の言葉によって造られ、神の言葉によって意味を与えられているということです。

もし世界が偶然にできたのなら、この世界の中で起こるすべてのこともまた偶然です。そうだとすると、私たちの存在も偶然であり、私たちは毎日ただ偶然に身を任せて生きていることになります。当然、生きる意味を問うこと自体、無意味です。

しかし、聖書はそうではないと教えています。この世界は神によって、神の言葉によって、神の意思によって造られたのです。そうである以上、この世界に存在するすべての物、この世界で起こるすべての出来事には神によって与えられた大切な意味があるのです。私が生まれたことにも、今日まで生きてきたことにも、これから生きることにも、すべて大切な意味があるのです。

有名な心理学者であり、精神科医であるフランクルという人がいます。ご存知の方も多いと思います。彼は第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが故に、家族と共にナチス・ドイツによって強制収容所に送られました。彼の父も母も妻も強制収容所で死亡するという苦しい体験をしました。そんな過酷な強制収容所での体験をもとに書かれた本が、有名な「夜と霧」という本です。フランクルは、自分自身の強制収容所での体験をも踏まえて、どんな過酷な状況においても、必ずそこには意味があるということ。そして、その意味を知ること、意味を見出すことが、「生きる力になる」と語りました。

ただ、その意味は、人間が勝手に考える意味ではありません。また、人間が勝手に、意味があるとか、ないとか決めるものでもありません。

フランクルは、あらゆる現実の中に、既に意味は存在すると言います。私たちが、意味なんかないと思ってしまうような現実や状況においても意味はあるのです。

しかし、なぜそのように言うことができるのでしょうか。それは、聖書が教えているように、「万物は言葉によって成った」からです。

なぜだか分からないけど、漠然と意味があるというのではありません。また、人間が自分勝手に意味があると思い込んでいるのでもありません。そうではなくて、「万物は言葉によって成った」からこそ、すべての物に、すべての現実に大切な意味があるのです。

ヨハネによる福音書の9章を見ると、イエスの弟子たちが、「生まれつき目が不自由な人」を見て、この人が生まれつき目の見えないのは、この人が罪を犯したからですか、それとも両親ですか、と尋ねる場面があります。当時のユダヤの人々は、生まれつき目の不自由な人々や、体の不自由な人々は、神に呪われているという差別や偏見を持っていました。しかし、イエスは弟子たちに、誰が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためであるとおっしゃいました。つまり、「目の不自由な人」は、むしろ神の素晴らしいお働きと栄光を現す、かけがえのない存在であるということです。

イエスは差別され、人々から見放されていた彼の中に、そのような素晴らしい意味を見出されたのです。社会の中で、貧しさの故に、病の故に、また様々な問題の故に、虐げられていた一人一人の存在を、イエスは、かけがえのない大切な存在として受け止め、彼らを愛されたのです。

私たちが日々経験することの中には、その時は、なかなか意味が分からないこともあります。突然の病や事故によって、今まで自分が描いて来た人生の計画や、夢を諦めてなくてはならないこともあります。そんな時私たちは、自分の存在の意味や人生の意味を見失ってしまうこともあります。

けれども、そんな時でも、神は、私たちの存在に、私たちの人生に意味を与えてくださっています。今すぐには分からないこともあります。しかし、たとえそうであったとしても、そこには確かに、神が与えてくださった意味があります。そして、神は必ず、一番相応しい時に、私たちにその意味を教えてくださいます。

今、皆さんがこの放送を聞いてくださっていることにも、神によって与えられた大切な意味があります。一つ一つの出会いに感謝して、今日という日を過ごして参りましょう。

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