共に生きる②

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聖書の言葉

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章22節

吉田実によるメッセージ

先週は、私が遣わされています神戸長田教会が90周年の記念行事として高齢者の皆様のことを覚えた「カフェ」のような居場所づくりを考えているという事、そしてその際に、高齢者だけが集うのではなくて、幼い子どもたちや障がいを持つ子供たちや、手伝ってくれる若者たちや壮年の人たちなど、いろんな人たちと何らかの仕方で交流を持てるような場所にしたいというお話をさせていただきました。三位一体の神様にかたどって造られた人間は、いろんな違いのある者たちが支え合って仕え合って共に生きる時にこそ、「神のかたち」らしさが現れるに違いないと信じているからです。本日もその続きなのですけれども、私は最近このことに関係する、ある印象深い出来事を経験いたしました。

私は昨年からある病院の難病の子供たちのための美術教室のボランティアをさせていただいているのですけれども、それはいつも私の方が励まされる、私自身にとりましてもとっても嬉しい、豊かな時となっています。障子紙を細かく折りたたみまして、赤、青、黄色、緑の4色に染めた色水につけることによって綺麗な模様を造りだす「折り染め」をいつも行っているのですけれども、その細かくたたんで色に染めた障子紙を広げて、びっくりするほどきれいな模様が表れたその瞬間の子供たちの笑顔が本当に素敵で、いつも私の方が励まされ癒されているのです。でも、その難病の子供たちの中にはベッドに寝たままで、手で何かをつかむということも難しい子供たちがいまして、そういう子供達と一緒に制作をするにはどうすればよいのかということでずいぶん悩みました。私が障子紙を挟んだピンセットを子供たちの手に握らせてあげて、私が手を添えて色水につけますと、一応きれいな模様が出来るのですけれども、それは実質的に私が全ての事をやってしまっているわけで、その子の作品とは言えないと思うのです。それで、何かいい方法はないかと考えたのですけれども、手が動かなくても瞬きは出来ます。そこで、赤、青、黄色、緑の4色の色紙を用意いたしまして、「最初はどの色がいい?目をつむって教えてね!」と言って順番に色紙を見せますと、「パチ、パチ!」と瞬きで合図してくれる子がいるのです。最初は赤、次は黄色…と、自分で選んだということで、その作品はわたしが手を添えたとはいえ、完全にその子の意志が反映されたその子の作品となります。ですので作品が出来上がった時の笑顔も、明らかに豊かになったと私は感じています。そしてこの出来事を通して、人は出来なくなったことを見つめて嘆くよりも、残されていること、今できることを見つめて、そのことを通して始まる可能性に期待する方が良い。このことの大切さを教えられたように思います。そしてさらに、能力や効率や生産力などで人を測るのではなくて、神様にかたどって造られ共に生きる人間の、ひとつの特徴ととらえる時に、「弱さ」も「賜物」となるとなるのだということを、教えられたような気がいたします。

何度かお話をさせていただいたことがありますけれども、我が家の息子は難病ではありませんけれども、体ははちきれるほど元気なのですが、重度の知的障害があります。そういう意味では、彼も誰かのお世話を常に必要とする「弱さ」を抱えています。けれども、そんな彼が私たち夫婦の息子として生まれて来てくれたという事実を通して、私と妻は大きな選択に迫られたと思います。「不幸なことが起こった」と嘆くのか、そして彼を、能力が低くて手間のかかる厄介な存在と見るのか、それとも同じ神様にかたどって造られた、共に生きる大切なパートナーとして受け入れて、そんな彼から神様が始めてくださることに期待して生きるのか、という選択です。私たち夫婦は苦悩の末に後の方を選びました。ということは、彼だけではなくそういう価値観・人間観を持って自分を見つめ、他人を見つめて生きるという生き方を選択したということです。そこからどれほど豊かな出会いと交わりが与えられて来たことでしょうか。難病の子どもたちとの出会いもそのようにして与えられた出会いの一つなのです。

聖書は、教会をキリストを頭とする体に譬えまして、そこに属する一人一人はその体の各器官であり、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と教えてくれています。そのようにして人間は、様々な違いのある者たちが支え合って、仕え合って、共に生きるように造られたのです。それが本当の意味で人間らしい生き方なのです。そういう意味では、病や障がいや様々な弱さを抱える人々の存在そのものが、真に人間らしい生き方を回復するために神様から与えられた特別な賜物であると言うことが出来るのではないかと私は思います。私たちはそういうまなざしで隣人を見つめ、また次第に衰えて行く自分自身をも見つめながら、最後まで共に生きて行きたいと願っています。

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