時を生きる

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聖書の言葉

何事にも時があり、

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時

植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時

破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時

嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時

抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時

保つ時、放つ時

裂く時、縫う時

黙する時、語る時

愛する時、憎む時

戦いの時、平和の時

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章1~8節

宮﨑契一によるメッセージ

先日、私は30代から40代のクリスチャンの集まりの集会に出席をしました。私もちょうど今30代です。そこで話をしていますと、30代から40代、その時期特有の仕事の上での多くの苦労やプレッシャーがあるということを改めて教えられました。

30代から40代の時期というのは、上の世代の上司や、自分より下の世代の若い人たち、その間での様々な役割が求められる世代だ、ということが話されていました。私たちの働く社会は競争の激しい社会ですし、そこで勝ち抜くこと、成果を上げることが求められています。その中で、いろいろと悩んだりしながら、自分の働きをしているということもあるのだと思います。これは、30代や40代に限らないことです。

その中で、聖書は私たちの置かれている現実を、もっと大きな視点から見ている、ということが言えると思います。先ほどお読みした聖書の中に、様々な時のことが出てきました。~の時、という言葉が繰り返し出てきました。そこで言われているように、私たちには、泣く時があれば、笑う時があります。嘆く時もありますし、踊る時もあります。愛する時がありますし、憎む時があります。戦いの時があり、平和な時があります。様々な時です。

ここで聖書が語っているのは、私たちが人生の中で味わう、一つ一つの時についてです。私たちの人生は、笑う時だけではありません。躍る時だけでもありません。泣く時がありますし、嘆きの時もあります。そういう一つ一つの様々な時を私たちは生きているのだというのです。

そして、そのような一つ一つの時は、偶然にそれが起こる「時」なのではありません。全ては、神によって定められた「時」なのだと聖書には記されています。聖書の神は、天と地を創られた方です。そして、この方は私たちの生きる「時」をも支配されます。そのように、全ては神が定められた「時」を私たちは生きているのだ、と聖書は言うのです。ここには、ただ目の前の現実を慌ただしく生きている私たちにとって、時を定められた神に、目を向けさせるものがあるのだと思います。

最近、印象深く心に残った一つの詩がありました。河野進という牧師が作った詩です。河野牧師は、岡山県にある岡山ハンセン病療養所での慰問伝道にも50年以上もの間携わってこられた方です。この方が「病まなければ」という詩を書きました。皆さんもお聞きになったこともあるかもしれませんが、その詩をご紹介します。

病まなければ、ささげ得ない祈りがある

病まなければ、信じ得ない奇蹟がある

病まなければ、聴き得ない御言葉がある

病まなければ、近づき得ない聖所がある

病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある

おお病まなければ

私は人間でさえもあり得なかった

こういう詩です。これは、ハンセン病という本当に大きな病に向き合ってこられた牧師の言葉なのだと思います。病まなければ、と繰り返されます。病む、ということは私たちにとっては辛いことです。落ち込むこともありますし、悲しみを覚えることもあります。先ほどの聖書の言葉で言えば、「泣く時」や「嘆く時」、「死の時」と言ってもよいかもしれません。

しかし、この詩の中では、病むという状況の中で、なおそこに生きる意味が見出されています。なお、そこに光があります。病まなければ、自分は決して祈りを献げる者にはならなかった。病まなければ、決して聖書の言葉、御言葉を聞くことはなかった。また、病まなければ、私は決してイエス・キリストを仰ぎ見ることはなかった、というのです。

私たちは、泣く時や、嘆く時、というと、何で聖書の神は、こういう時を定めたのだ、こういう時は無くても良いのではないか、と不満に思うかもしれません。しかし、聖書によれば、一つ一つの時は神に定められた時であり、したがって、それは一人一人にとって意味のある時だというのです。病む中で、神に献げる祈りがあります。また、病む中で初めて神の言葉に聴こうとする自分がいます。病の中で、仰ぎ見るイエスの御顔があります。一つ一つの時に意味があるということは、この一つの詩を通しても表されているのだと思います。一つ一つの時は、キリストとの出会いの時です。

様々な人生の疲れや重荷を担っている方、また重い病に掛かっている方も含めて、どうぞ教会に来ていただきたいと思います。イエス・キリストというお方は、そういう一人一人を受け入れた方です。この人は駄目だ、という人は一人もいません。どうぞ、キリスト教会に行かれてみてください。キリストを信じる人は、人生のそれぞれの時の中で、そこになお、確かに生きる意味を見出すことのできる人なのです。

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