立ち上がり、歩きなさい

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聖書の言葉

ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

新約聖書 使徒言行録 3章6節

宮﨑契一によるメッセージ

この「日曜日」は、イエス・キリストが十字架の死から復活された日です。教会では礼拝が献げられています。ラジオを聞いておられる方が、是非、キリストの教会へと導かれることを願っています。

キリストを信じるということについて、皆さんはどのようにお考えでしょうか。何かにすがりついて生きることは嫌だ、という思いがあるかもしれません。または、束縛を感じたり、自分の重荷が増えると思われることもあるかもしれません。確かに重荷とか束縛だけで終わるのであれば、信じることも意味がないのだと思います。

そもそも現代社会に生きているわたしたち一人一人は、とても疲れを覚えていると言えるかもしれません。激しい競争社会の現実があります。失敗は許されません。自分の置かれている現実に悩み疲れを覚えている、そういう若い人の声を最近聞くことがありました。わたしたちが今の現実の中で生きているということ自体に、本当に厳しさがあると思います。そして、時に疲れ果ててしまうこともある、わたしたちはそういうことを思わざるを得ない時があるのではないでしょうか。

先ほどお読みした聖書の中にも、世の厳しい現実に直面させられている一人の人が出てきます。この人は、生まれつき足の不自由な人です。もう40歳を過ぎていた人でした。この人は、自分で働いて生活をすることはできません。世の中から見捨てられたに等しい人です。周囲の誰からも顧みられることのない人でした。ただ、人々からの施しを求めて生活をしていました。

けれども、この人にとって人生の中で初めての喜びの時が訪れます。この人が本当に喜んで、立ち上がる時です。聖書の神という方は、ラジオの前にいるあなたが、たとえどういう状況の中にあっても、その人に本当の生きる喜びをお与えになる方です。それは、日常生活の一時的な喜びとは違う本当の喜びです。本当の喜びですから、人を変える喜び、そして、その人を本当に生かす喜びです。聖書の中には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という有名な言葉があります。いつも喜ぶことができる、どんなことにも感謝することができる、それが聖書の神がお与えになる本当の喜びだというのです。その喜びが、ここで一人の足の不自由な人に与えられました。そして、この人は飛び上がり、躍り上がって、神を賛美したと聖書に書かれています。足の不自由な人が立ち上がったと言われるほど、本当に大きな喜びが与えられたのです。

では、この喜びはどこから来るものでしょうか?もちろん、聖書は根拠なく、喜びがありますよ、信じれば大きな喜びがある、と言っているのではありません。わたしたちがいつも喜べること、どんなことにも感謝することができること、そういうことを神様は確かに成し遂げてくださったのです。

それは、御自分の愛する御子イエス・キリストをこの世に与えてくださった、ということです。私たちが疲れを覚え、また行き詰まりを覚えることさえあるこの暗闇の世の現実に、真の光が与えられたと聖書は語っています。神様はイエス・キリストを与えてくださいました。このキリストを信じ受け取るのであれば、あなたにも本当の喜びがある、と聖書は語ります。

わたしが、本当にこのキリストの喜びが与えられたのは、大学生の時でした。わたしはある一人の友人と、大学の寮の同じ部屋で一年間生活をしていました。彼はキリストを信じていました。わたしはその友人と一緒に生活をする中で、一つのことに気づかされました。それは、この人は本当にキリストを信じている、キリストを喜んでいる、ということだったのです。

彼は大学の中で、特別に優秀な学生ということではありませんでした。普通に学生生活を楽しんでいた人です。しかし、わたしが彼と一緒に生活をしていて気づかされたことがあります。それは、彼の中には自分にとって絶対に譲れないものがある、ということでした。それが、キリストを信じて生きるということだったのです。このキリストを喜ぶ、ということでした。彼はそのことを自分にとって絶対に譲れないものとして、本当の喜びとして学生生活をしていたのです。

そのような彼と一緒に生活をしていて、わたしはキリストのこと、信仰のことを考えざるを得ないようになりました。そして、彼と一緒に聖書について話をしたり、一緒に生活をする中で、わたしは初めて、イエス・キリストが罪人である自分のために十字架で死んでくださった、ということが分かるようになりました。その時、本当に深い喜びがありました。

キリストを信じるということは、単なる束縛や、重荷に終わるものではありません。心から喜べるものです。いつも感謝をすることができるものです。自分は救われている、という確かな実感のあるものです。神様は、みなさんにも、足の不自由な人を立ち上がらせたのと同じ、大きなキリストの喜びを与えてくださるお方です。最後に、最初にお読みした聖書の個所をもう一度お読みします。

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

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