主イエスの憐れみ

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聖書の言葉

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

新約聖書 マルコによる福音書 6章34節

吉田実によるメッセージ

只今お読みいたしました聖書の御言葉からお話をさせていただきます。この時イエス様は働きを終えて帰ってきた弟子たちを休ませるために、船に乗って人里離れたところに向かわれました。ところが、大勢の群衆が救いを求めてイエス様の後を追いかけて、ついてきてしまったのです。イエス様はそんな群衆の姿をご覧になりまして、「深く憐れみ」と書かれています。

この憐れみ、という言葉は内臓を表す、はらわたがよじれるほどの痛みを表す強い言葉で、新約聖書ではイエス様にだけ用いられる特別な言葉なのです。イエス様は何をご覧になってそのような痛みを感じられたのでしょうか。それは「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」と書かれていますように、イエス様は救いを求めて御自身を追いかけて人里離れたところまでついてきてしまったこの群衆をご覧になって、「まるで飼い主のいない羊のようだ」と思われ、おなかが痛くなるほど深く憐れんでくださったのです。

「飼い主のいない羊」はどうなるのでしょうか。羊という動物は方向音痴なのだそうです。ですから、ユダヤのように荒れ野が多い場所では、自分でエサや水を探してまた巣に帰ってくる、というようなことが出来ないのだそうです。また、羊は外敵から身を守るための鋭い牙や爪を持っていませんので、常に危険にさらされることになります。また、当時のユダヤの羊飼いは自分の羊に一匹一匹名前を付けて呼んだのだそうです。ヨハネによる福音書10:3には「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書かれています。ということは、「羊飼いのいない羊」とは、自分の名前を呼んで連れ出してくれる人がいない孤独な羊だということです。イエス様は救いを求めてついて来た群衆の姿に、そのような「羊飼いのいない羊」のような姿をご覧になって、深く憐れんでくださって、神の国の福音を教えて下さって、たった5つのパンと2匹の魚で5千人以上いた彼らの空腹を満たしてくださったのです。

そしてこのイエス・キリストの憐れみ深いまなざしは、今も私たちの上に注がれています。なぜなら、私たちの罪の為に十字架に死なれ、三日目に蘇られ、天に昇られた主イエス・キリストは、今も生きておられるからです。そしてこの「羊飼いのいない羊」のような姿は、現代の私たちの姿とも決して無関係ではないからです。

今日の箇所の続きには、この群衆をイエス様がたった5つのパンと2匹の魚で養ってくださったという、とっても嬉しい食事の奇跡の物語が記されているのですけれども、イエス様は共に食事をするということをとても大切になさいました。愛する者と共に食事をするということは、ただ栄養を摂取するというだけではなくて、愛を分かち合う場なのだと思います。

そういう大切な食事の風景が、ずいぶん変わってしまったように思います。今や、毎晩家族そろって「いただきます」と言って一緒に食事をしているのは、「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」の家くらいなのかもしれません。

パソコンやケイタイやスマホ等の普及に伴い、ラインやツイッターやフェイスブックなどのコミュニケーションツールの普及には驚くべきものがありますけれども、そういうコミュニケーションツールが発達すればするほど、実際のコミュニケーションがうまくいっていないような気がしてなりません。学校の友達やママ友のグループなどでラインでつながって、誰かが何かを言ったらすぐにコメントをしないと「無視をした」と言って相手が傷ついたり、逆に仲間外れにされるというような状況の中で、そんな厄介な関係に負担を感じながらも、排除されるのが怖くて、打ちたくもないメールを打ち続けている人は少なくないそうです。ネット上で見ず知らずの人と匿名で出会って交流するということも盛んに行われていますけれども、そういう関係は簡単に出会うことが出来る反面、破たんするのも早いのです。また、インターネットなど使わない高齢者の方々も、同じような孤独を感じておられるのかもしれません。大家族で支え合いながら共に生きるという家族の形がどんどん失われつつある中で、高齢者の方のお世話はどうしても福祉のサービスに頼らざるを得ないという現実があります。福祉のサービスが充実することはとても大切なことですけれども、そういうサービスを受けながらも、心の底に深い孤独を抱いておられる方々は少なくないのではないでしょうか。施設やヘルパーの方が親切にしてくださいましても、それは有料のサービスなのであって、契約が切れればその笑顔も消えるのです。

このように、一見自由に暮らしているようで、実はどこからきてどこに行くのかもわからず、真実な愛に飢え渇き、他人から排除されることを恐れ傷つきながら、心を込めて名前を呼んでくれる人がいないという孤独にさいなまれている、そんな現代を生きる私たちの姿を、主イエス・キリストは「飼い主のいない羊」のような有様として深く憐れみながら心を痛めつつ見つめて下さって、そして私たちの名前を心を込めて呼んでくださるのです。「あなたはわたしの羊なのだから、私の元に帰っておいで」と呼んでくださる、この真の羊飼いの声に、ぜひ気づいていただきたいのです。

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