究極の愛

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聖書の言葉

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章34節

大野桂一によるメッセージ

「最後の晩餐」というレオナルド・ダ・ビンチの絵をご存じの方は、多いと思います。この最後の晩餐は、ヨハネによる福音書によると、恐らく今日の暦に直すと紀元30年4月6日のことでした。

この最後の晩餐の日に、イエスは弟子の一人ユダの裏切りにより、捕えられ、夜中にまずユダヤの最高法院で、神を冒瀆した者として裁かれます。イエスの教えや言動が、ユダヤ教を揺るがすものであったからです。

当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人は死刑の判決が下せないので、次はローマ帝国の総督ピラトの裁判を受けさせます。

イエスは、既にご自分が人の罪の身代わりとして死ぬことを覚悟されていましたので、裁判においても何も弁解せず、毅然として対処されました。それは総督ピラトが不審に思うほどのものでした。ピラトはイエスに罪のない事が分かりながら、ユダヤ人の圧力に負け、イエスをローマにたてつく政治犯、ローマ帝国に反逆する者として、十字架刑にかけたのでした。十字架は最後の晩餐から十数時間の後の出来事です。

この最後の晩餐の途中で、イエスは席を立ち、弟子たちの足を洗われました。洗足です。当時のユダヤでは、来客の足を洗う習慣がありました。体をきれいに洗っても、はきものはサンダルで、道もほこりだらけ、足が汚れたからです。この洗足は、身分の低い人、奴隷の仕事でした。

その洗足を師であり先生であるイエスが、恐らく家に入る時に洗われていた筈の弟子たちの足を、しかも宴会の途中で洗われたのです。ここでイエスが弟子の足を洗われたことは、何か大切な意味が、示されているはずです。洗足はどのようなことを意味したのでしょうか。

一つは、師である方が、自分の足を洗われるなんて勿体ないと感じて、イエスの洗足を断ったペトロに「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)と言われたように、弟子たちが十字架の後で分かったことです。イエスの洗足は、御自分の十字架の血潮によって、人の罪を洗い清める救いの象徴的な意味がありました。この意味での洗足は、総ての人は、主イエスにしていただく必要があることです。

二つ目は、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(17節)と言われたことです。ルカの福音書の最後の晩餐の記事では、弟子たちが、自分たちのうちでだれが一番偉いかと議論して、イエスが「あなたがた中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と教えられています。(ルカ22章26節)

師であるイエスが弟子の足を洗われたのは、イエスが弟子たちを愛した、その愛を模範として、弟子たちが互いに、愛し、仕え合って欲しい事を示されたのです。誰が一番偉いか等議論していた弟子たちに、師が弟子の足を洗うという行動をもって、愛の原理を教えられたのです。しかし、この愛は単なる人の謙虚さの愛ではありませんでした。

この愛を教えられた最後の晩餐の席に、裏切りを心に秘めたユダもいました。イエスはユダの裏切りに気づいておられましたが、他の弟子たちに、はっきりとユダの裏切りが分かるようなことは、言われませんでした。最後の最後まで、裏切る気持ちのあるユダを愛され、ユダが、悔い改めること望み、ユダの足も洗われたのです。ユダは他の弟子と同じように足を洗って貰い、イエスの差し出されたパンも平然と受け取りました。ユダの裏切りの決意は、決定的でした。そこでイエスは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13章27節)と言われました。他の弟子たちは、なぜこう言われたのか分からず、ユダが会計係をしていたので、この宴会に必要な物を買いに行きなさいとか、貧しい人に何か施すように言われたのだと思いました。30節「ユダはパン切れを受け取るとすぐに出て行った。夜であった」と記されています。ユダはイエスの愛を受け入れず、霊的にみれば暗黒の世界に入って行ったのでした。

その後、イエスは、34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と新しい掟を与えられました。

古いユダヤの戒めは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)でした。私たちは自分の周りの伴侶や家族、知り合いを愛することは出来ますが、敵対することもあります。また、私たちには謙虚さもあり、ある程度は謙遜し愛しても、裏切ることもあります。

しかし、イエスの愛は、裏切るユダに対しても最後の最後まで愛される徹底的な愛であります。敵をも愛する愛です。

翌日十字架につけられたイエスは、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と父なる神に祈られました。何も罪のない自分を十字架につけた人々をも、赦してほしいと、神に祈られました。イエスの愛は、裏切ったユダをも、十字架につけた人々をも赦される無限の愛、すべての人に注がれる究極の愛でした。

イエスの新しい愛の掟は、単なる人間的なレベルの愛でなく、イエスの究極の愛をいただき愛することです。私たちは互いに愛し合って平和に生きたいと願いながらも、現実の自分だけの愛では、愛に限界があるのです。

すべての方が、主イエスに目を注ぎ、主イエスの愛をいただき、自分の愛の限界を超え、少しでも主イエスの愛を実践できる者へと成長していけたらと願います。

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