自転車と聖書の意外な関係②

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聖書の言葉

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章13~14節

赤石めぐみによるメッセージ

自転車と聖書の意外な関係について、前回からお話させていただいています。

今日は、夫がこのあいだまで乗っていたタイヤの細いロードバイク、ピナレロF3:13という自転車の話をしたいと思います。

ピナレロというのは、イタリアの名門ロードバイクメーカーの名前で、毎年何種類かのロードバイクを出しており、F3:13というのは2007年に発売されたフレームの名前です。フレームの名前はいろいろあって、ピナレロの場合には、プリンスとか、ドグマとか、だいたい意味のある単語の名前をつけるのが普通ですが、このF3:13は記号みたいで、私は恥ずかしながら、つい最近まで、これが何を意味しているか知りませんでした。最近になって気になりだして、調べてみてわかったことは、Fがフィリピの信徒への手紙の頭文字だった、ということです。ピナレロはイタリアの会社ですから、フィリピをイタリア語で綴ると頭文字はFなわけです。つまりF3:13は、フィリピの信徒への手紙3章13節ということだったのでした!最初にお読みした御言葉、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・・・・目標を目指してひたすら走ることです」という言葉が、自転車にぴったりだったのでしょう。

「目標を目指してひたすら走る」と聞くと、ゴールや目的地まで、ひたすら一生懸命走ることを言っているのかな?と思ってしまいます。ですが、聖書の言葉遣いををよく確かめてみると、「目標を目指してひたすら走る」の「目標」とは、ゴール地点も含まれますが、「ゴールまであと◯キロ」という、目に見える距離目標の印のことを言っているようです。また、「ひたすら走る」と訳されている言葉は、他では多くの場合、「迫害する」と訳されていて、「後を追う」「追い求める」「つかまえるまで追いかける」という意味あいの強い言葉です。

実際に旅をしている時のことを思い起こしてみると、最初からいきなり目的地を目標として走ってはいません。青看板で、途中の町まであと◯キロ、という表示があると、まずはそこまでを目標と考えたり、つらい坂道に入ると、頂上まであと5キロくらいだからそこまで頑張ろう、と思いながら走りますし、次のコンビニまで、という近い目標を決めて走ったりもします。それを思うと、私たちは人生においても、一足飛びにゴールを目指して生きるのではない、要所要所で目標が見えてきたときに、それをとらえよう(そこに到達しよう)と追いかけ続ける、ということを小刻みにしながら生きているのだ、そうして最終的なゴールを目指しているのだ、ということに気付かされます。ツール・ド・フランスみたいな、1日200キロくらいの距離を3週間にわたって毎日走り続ける自転車レースがありますが、レース中、常に全速力で走っているわけではありません。ですから、人生を生きるときも、いつも全速力で走っているべき、ということはないのですね。ゆっくり走ったり、ときには止まって休憩したりすることをはさみながら、最終的なゴールを目指しています。

「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向ける」とありました。私たちには忘れられない過去、忘れてはいけない過去があります。つい先日も、19年前の阪神・淡路大震災を覚えるときがありました。東日本大震災のこと、福島の原発事故のこと、広島・長崎の原爆のことなど、いろいろあります。それらを忘れてしまえ、と言われているのではありません。レースのとき、勝負を決める瞬間というのがあります。ゴールに突き進むときには、前へ前へと向かっていて、後ろは一切見ません。最後の最後に、少しでも相手に差をつけるために、ぐうっと体や頭を前に出そうとして体を伸ばします。そのことを指して言っています。長いレースの中で、途中ゆっくり走ったり、止まって休憩したりすることがあっても、最終的なゴールで勝負を決めるときにはこういう戦い方をするのです。人生の勝負時に出せるだけの力を振り絞って、精一杯勝負して、最終的なゴールを目指す。これが私たちのなすべきただ一つのこと、と言われています。

最終的なゴールとは何でしょう?それは「神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞」です。少なくとも、イエスさまと無関係でいては得られない賞のようです。イエスさまにつながって生きたなら、神さまが上へと召してくださって、「わたしが与えた命をよく生きたね」と言ってくださるのかな、と思います。神さまは私たちに、イエス・キリストをとおして、新しい命を与えてくださいます。死んでも生きる永遠の命です。これがどんなにすばらしいか、今日の箇所の少し前で、パウロという人はこう言っています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。(中略)わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3:5~11)

「何とかして死者の中からの復活に達したい」!死んだように生きるのをやめて、生き生きと生きたい!死がすべての終わりであるかのように絶望的に生きるのではなくて、死んでも終わらない命を生き続けたい!そう願いつつ、イエス・キリストにつながって生きている人たちは、長い長い人生のレースを走っているのです。「わたしが与えた命をよく生きたね」と、天国に行ったときに神さまに言っていただけるように生きていきたいなと、私自身は思っています。

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