死んでも生きる

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聖書の言葉

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章25~26節

大野桂一によるメッセージ

2012年10月、教会の講演会で柏木哲夫先生の講演があり、また、2013年6月にNHKで「死を背負って生きる」と題して、柏木先生が対談されていました。そのお話を要約しますと、現代の日本は、80%以上が病院で亡くなり、死の経験が乏しく、死に対して心の準備が出来ていない。現実には、死はいつおこるかも分からない。自分の死を常に考えて置く必要があるそうです。

柏木先生は、臨床医として40年間に2,500人余りの看取りの体験を通して、およそ人は死ぬ時、①肉体が苦しまないこと、②愛する方々に感謝したり、お詫びしたり、交わりのある死③魂の平安、この三つの事を人は望む。魂の平安は、名誉、財産、地位、また人間の知恵では得られない。上から神から与えられるもの。即ち、再び会うことが出来る、永遠の命の確信があるかどうかであると、言われました。

創世記によると、神は人を土の塵で形づくり、その鼻に神の息を、即ち霊・魂を吹き込まれ、人は霊・魂において神と交わるものとして創られました。人は生きている時も死後も霊・魂において永遠なる神と交わりに生きるように創られたのです。

残念ながら人は、自らの罪により神との交わりを失いました。そこで神は、2000年前、独り子イエスを、人の罪の身代わりに十字架にかけ、復活させられました。主イエスを信じる者は、罪なき者とみなし、交わりの回復の道を拓いてくださいました。

ヨハネによる福音書11:25~26によると「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」とあります。

聖書の原語では、命について、肉的な命と霊的な命とは別々の単語があり、「私を信じる者は、死んでも生きる。」の「生きる」と言う単語は、霊的な命と言う単語が使われています。

従って、イエスは、私を信じる者は、肉的命は死んでも、霊的命は生きる。この世で肉体が生きている時も死後も、人は霊的命を生きる事が出来る、霊性・魂に置いて神との交わりに永遠に生きることが出来ると言われているのです。

柏木先生は、二人の患者さんの話をされました。72歳の地位も名誉も財産もある社長さんが膵臓癌で入院された。痛みが非常に強かったが、薬で痛みは取り去られた。しかし、その社長さんは、死に対する恐怖感、不安が強く、それが解決されないまま、怖い怖いと言いながら、虚しい死を迎えられたそうです。

2週間後入院された72歳の女性の患者さんは、肺がんで大変息苦しい状態であったが、モルヒネでその痛みがとれたそうです。彼女は最後まで意識がはっきりとされ、死がもうすぐと予感され、私に「先生も後から来て下さいね」と、また、翌日、娘さんに「じゃあ行って来るね」と言って亡くなられた、と話されました。

もう一人、私の友人のご子息が、余命1年と宣告され、25歳で召されました。そのクリスチャンである青年とお母さんの会話を紹介します。

「いつも穏やかで、時々冗談を言ったり、歌を口ずさむ息子、苦しい時もわがまま一ついわずじっと耐える息子。あと僅かの限りある生命と知りつつ、百歳までも生命が保証されているかの様に、話をする息子に毎日接しながら、懸命に平静を装いつつ、自分の死をどう思っているのだろうと、彼の気持ちを思いやって、私の方が叫び出しそうになっていました。彼はその思いを察したのか、ある時、こんな話をしてくれました。

『お母さん、昨夜お父さんと話していた時だけどねえ、お父さんはあと一年の命だと言われたら、パニックになるだろうと話したけれど、どうしてかなあ。』

『お母さんだってそう思うわ、目の前が真っ暗で何してよいか分からなくなると思うもの。』

『どうして、だって今夜の命の保証もないんだよ。こんなことを言ってたって、元気なお母さんの方がぼくより先に死ぬかもしれないんだし。』

『それは解かる、でも自分が死ぬなどと考えないよね。自分だけは死なないみたいになっているもの。』

『そうだね。お母さんはいい年をしているのに、自分の死はずっと遠い先の事だとおもっているんだから、愚かだよね。』

『ぼくね、自分の死がしっかりとらえられているってことは、しっかり生きられる事だと解かってきたよ。』

『そう、でもお母さんは、自分の死を現実として実感できないもの。Kくんは怖くないの?』

『怖いという気持ちではないな―』

『では不安は?』

『そうだね、お母さんは死ぬことを表と裏の関係みたいに捕らえるから、怖いと思うのではないかなあ、うまく言えないけれどね。ぼくはある一点を境に生きることも死ぬことも同じ線の上にある事だと思うよ。その一点が死ぬという瞬間だと思うけれどね。だから、別に怖がることはないと思う。ただ怖いのは、死ぬとき苦しむことだよね、苦しむのはいやだからね。怖いといえばこの事かなあ。』

『でも不安はないの?』

『うん、不安でないと言ったらうそになるけれど、死ぬ事が恐くて不安になるのとは少し違うなあ。例えば、今の自分の仕事を替えるとき、次はどんな仕事の内容だろうかとか、どんな同僚がいるだろうかとか、どんな上司になるのかといった感じの不安だよ。でも、それ以上に希望があるからね。』」

この青年も肺がんの女性も、魂の平安の内に死を迎えることが出来たのでした。死んでも生きたのでした。

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