苦難の意味 その2

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聖書の言葉

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章35節

吉田実によるメッセージ

「苦難の意味その1」でもお話いたしましたように、私たちは時に様々な苦難に遭うことがあります。「神様がおられるなら、どうしてこんなことが起こるのか」と思うようなこともあるのです。けれども、今日の聖書の箇所でパウロという人は、どんな困難が襲ってこようとも、私たちをキリストの愛から、キリストに表された神様の愛から引き離すことは出来ないと語っています。なぜでしょうか。

パウロという人は、はじめはクリスチャンを迫害していた人です。けれども、復活のキリストとの出会いの中で劇的な回心を経験して、逆に命をかけて、このイエス・キリストこそ神の子・救い主であるということを宣べ伝え続けた人です。そんなパウロは、様々な苦難を経験した人でもあります。時に捕えられ、鞭で撃たれ、石を投げつけられ、命を落としそうになったこともあります。海で遭難しそうになったこともあり、寒さや飢えにも苦しみました。またさまざまな非難中傷にさらされることもありました。イエス様と出会って、イエス様に従うようになったら、イエス様が助けてくださって何も苦難は無かったというのではないのです。むしろ逆に、イエス・キリストを信じてキリストに従うが故の様々な苦難を経験した人なのです。けれども、どんなに苦労をし、どんなに厳しい迫害にあおうとも、イエス・キリストにあらわされた神の愛から私たちを引き離すことは出来ないと彼は語りました。なぜなら、イエス・キリストにあらわされた神の愛とは、キリストの十字架にあらわされた愛だからです。パウロはこう語っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」神様はわたしたちを救うために、ご自身の一人子の命という、一番大切なものを既に与えて下さいました。イエス・キリストは、わたしたち人間の罪の責任を全て背負って、十字架の上で裁かれ血を流し、その命を捨ててくださいました。そして死の力に打ち勝って、よみがえってくださいました。そうであるならば、この最も大切なキリストの命を下さった神様が、それ以外のものをケチって、くださらないはずがない。そして、さまざまな苦難もこの神様の大きなご支配の中で起こることであるなら、今はその意味はすぐにわからなくても、必ず全てのことは益となるに違いない。むしろその苦難の中にこそ、神の力があらわされる。パウロはそう信じて、そして実際にその恵みを味わっていたのです。だから、どんな苦難も、このイエス・キリストの十字架にあらわされた神様の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのだと、パウロは語ったのです。つまり、最も大切な神の独り子の命がこの私のためにささげられたのだというこの驚くべき事実を知って、本当に信じることが出来たなら、苦難が消えてなくなるのではないのですけれども、その意味は全く変わってしまうということです。

先日、ある高校の「命の授業」というドキュメンタリーをテレビで見ました。それは、生徒たちが自分の手で卵からひよこを返して、みんなで協力して育てて、鶏にまで育てあげて、そして最後に自分たちの手でその鶏を絞めて、処理をして、お肉にして、そして食べるという授業でした。生徒たちは初めから授業の内容の説明を受けて、納得してその授業を受けるのです。けれども、ひよこが卵からかえると、やはりかわいくて、名前を付けたりしてかわいがってしまうのです。そして鶏にまで育て上げて、いよいよ最後の処理をする日に、みんな泣きながら、「いやだいやだ、殺すなんて信じられない」と言いました。そしてそれでも約束ですから、先生に手伝ってもらいながら涙ながらに作業をして、最後に一緒に料理を食べる生徒たちが、とても厳粛な雰囲気に包まれていたことが印象的でした。そして授業の後の感想を見ますと、生徒たちがそれぞれ大切なことを学んだことが分かりました。たった一羽の鶏が、自分が生きるための一回の食事のために血を流し犠牲になった。その命のリアリティーに触れたとき、生徒たちは大切なことを学びました。そしてそうであるなら、まして、この私を救うために、神の独り子が血を流し、命を捨ててくださった、その命のリアリティーに触れることが出来たなら、私たちの生きかたは全く変わるはずです。降りかかってくるさまざまな苦難も、その意味がすっかり変わってしまうはずです。そしてこのキリストの命が差し出される場所、そのリアリティーに触れることが出来るところ、それが教会の礼拝の場なのです。共に十字架のキリストを見上げる礼拝の場に身をおいて、そこから一つ一つの苦難を見つめるとき、それはもはや罪の呪いではなく、むしろ神の力が、キリストの復活の命が現れる場となる。このキリストの愛から、私たちを引き離すことができるものは何も無いのです。

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