神さまからの応え

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聖書の言葉

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章9節

藤井真によるメッセージ

今、お読みした御言葉は、伝道者パウロという人がささげた祈りに対して、神さまがどう応えてくださったかが語られています。ある説によると、彼はとても大きな病にかかっていたと言われます。その病を一日も早く治してほしいと、何度も何度も神さまに祈り願ったのです。

でも、神さまは、パウロの病を癒されたわけではありませんでした。私たちの感覚からすれば、パウロの祈りは聞かれなかったのです。しかし、パウロ本人は、「神さまの恵みは私に十分だった」のだと、大きな喜びをあらわしています。

私たちも神さまに祈りをささげることがあります。私たちが祈りをささげるのは、私の祈りをちゃんと聞いてくださる方がいると信じているからです。だから、その方を信頼して、熱心に祈るのだと思います。

しかし、祈りの度に経験するのは、必ずしも自分が願ったとおりの答えが返ってくるとは限らないということです。その時、ああ神さまは、私たちの祈りを無視しておられると思ってしまうのです。繰り返しそういうことが起こりますと、もう神さまなんか信じていられないと、文句を言ってしまうこともあるでしょう。

私たちは、「神さまは祈りを聞いてくださる」と言うと、「自分の願いどおりになる」ことだと、思っているところがあります。だから、自分が願ったとおりに神さまがしてくださらないと、神さまは祈りを聞いてくださらないと言って、つぶやいてしまうのです。

しかし、神さまは、私たちのささげる祈りを無視されているわけではありません。あなたの祈りを一言、一言、聞き逃すまいと耳を傾け、聞いていてくだいます。そして、ちゃんと応えていてくださるのです。私の願いどおりに神さまは応えてくださらないかもしれませんが、あなたにとって一番相応しい仕方で、神さまはあなたの祈りに答えておられます。

以前、ある本の中で、こんな詩を目にしたことがあります。「応えられた祈り」という詩です。

功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに

謙虚に服従するようにと、弱さを与えられた。

より大きなことをしようとして、健康を祈り求めたのに

より良いことをするようにと、病気を与えられた。

幸福になるようにと、富を祈り求めたのに

賢くなるようにと、貧しさを与えられた。

人々の賞賛を得ようと、力を祈り求めたのに

神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。

人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに

あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。

祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに

実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。

このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ

すべての人にまさって、私は最も豊かな祝福を与えられたのだ。

今、紹介した詩は、自分が願ったとおりにならなかったことが歌われています。功績、健康、幸福、力など、どれもかなえられなかった。祈り求めたものは何一つあたえられなかったのです。与えられないどころか、自分が願ったこととはまったく正反対のものが与えられました。弱さ、病気、貧しさなど、一番望んでいなかった答えが返ってきたのです。

しかし、詩人は、何一つ与えられなかった。私の祈りを聞いてくださらなかったとは、何一つ文句は言っていません。確かに最初は、神さまからの応えに戸惑いを覚え、なかなか受け入れることができなかったと思います。しかし、時を経て、今は、「実は私が望んでいたすべてのものが与えられた」「すべての人にまさって、私は最も豊かな祝福を与えられた」と、神さまに感謝をささげて生きられるようになったのです。

最初にお話したパウロにとっても同じ思いだったでしょう。病という弱さの中で、たとえその病が癒されることはなかったと分かっていたとしても、なおそこに神さまが恵みを与えてくださることを知った時、生かされていることに感謝することができるのです。自分が強いと思っていた時には、決して、知ることができなかった恵みを覚えることができたからです。

イエス・キリストも、十字架につけられる前、ゲツセマネという場所で、「この杯をとりのけてください(十字架でわたしを裁かないでください)」と祈りをささげられました(マルコ14:36)。主イエスは、十字架で神に裁かれ、見捨てられることを、私たち以上に恐れておられたからです。しかし続けて「わたしの願いではなく、御心のままに」と祈られ、十字架の道を進まれました。

見方を変えると、主イエスの祈りは、神さまに聞かれなかったと言ってもよいかもしれません。「祈りが聞かれない」という私たちがこの世で経験するような痛みを、主イエスは私たちと共に経験しながら、なおそこで「御心のままに」と、神さまにすべてをお委ねになり、そこから溢れるばかりの恵みが、私たちのところにまで流れ出たのです。

自分を取り巻く環境の中で、自分の弱さを思い知り、何とかしてほしいと思います。祈っても、祈っても願いがかなえられず、苛立ちが募り、絶望することもあるでしょう。自分の胸に手を当てると、私は幸せだとは到底思えないという人もいるでしょう。

しかし、今、そうだとしても、やがて必ずや、「神さまの恵みは十分だった」「私が望んでいたすべてのものが与えられた」と言える日が来るのだと、聖書は教えています。今は神さまの恵みに気付くことができなくても、やがて神さまが与えられた自分の人生に感謝することができることを神さまは、あなたに約束してくださっています。

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