神を味わう

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聖書の言葉

味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

旧約聖書 詩編 34編9節

宮﨑契一によるメッセージ

今お読みした聖書の個所には、味わい、見よ、神の恵み深さを、と書かれています。神の恵み深さを味わい、見よ、です。この味わうという言葉は、案外、私たちの生活の中であまり使わない言葉ではないかと思います。皆さんはどうでしょうか。私自身は、あまり自分では使うことの少ない言葉だな、と思います。

ただ、この味わうということを改めて考えてみると、これはただ単に、自分の目で見て終わるということではありません。味わうということは、自分の中にそれを取り込んでみる、それをじっくりとかみしめるようにして自分のものにする、ということがあります。自分がそれに生かされる、というものです。神様の恵みは、単に自分の目で見て、終わるようなものでは決してありません。自分の全体でこの恵みを受け入れる。その恵みを自分の中に取り込んで、じっくりと味わってみる。そういうその人を生かす深い恵みを、聖書の神様は私たち一人一人に与えて下さいます。

「味わい、見よ、主の恵み深さを」。この詩編の言葉を語っているのは、生きることに苦しみを覚えている人です。自分の生きる拠り所を必要としている人です。私たちは誰でも、何かの生きる拠り所を求めています。私たちの生きる拠り所は何でしょうか。お金でしょうか、それとも相手よりも自分の方が上だと考える力、権力のようなもの、でしょうか。私たちの生きる拠り所になりそうなもの、そう見えるものは、世の中に数え切れないほどたくさんあります。

しかし、今日の聖書に出て来るこの人はこう言っているのです。「いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。神様を拠り所として、この神の御もとに身を寄せる人は幸いだ、と言っています。自分のことを幸いだと心から言っています。この人自身は、とても幸いな人には見えないかもしれません。とても苦しんでいるのです。苦しんでいる人を見ても、私たちは、どこが幸いなのだろう、と思うかもしれません。しかし、人生の苦しみや嘆きもある中で、神様のもとに身を寄せる人、神を拠り所とする人、とにかくそのことが幸いなのです。この人は神様のもとに自分の身を寄せよう、この方にもとで安らぎを得ようとしました。そのように神様を求めて、この神に生かされることが幸いなのです。

私たちの人生の悩ましく思うことや苦しみの中で、自分自身が、とても力の無い者、無力な者のように思えてくることがあります。自分が生きることの先行きが見えず、希望が見えないように思えることもあるかもしれません。しかしその中で、神様のもとに逃れて来る幸いです。これが幸いなのです。神に身を寄せることの幸い、その幸いを聖書は約束しています。

皆さんは、この人のことをどう思われるでしょうか。このように自分以外のところに逃れるのは、情けないと思われるでしょうか。そんなことではいけない、自分がもっとしっかりしなければいけない、そう思われるでしょうか。

聖書に書かれていることは、私たち人間は神の救いを必要としている者だということです。自分自身を神様に明け渡して、この神の下に逃れ身を寄せること。そこに本当の安らぎがあります。それは、自分はずっとここに止まるのだ、と思えるところです。自分のことを「いかに幸いなことか」、そのように心から言うことのできる神様の深い恵みがあります。

この神様の下に逃れる人には、必ずこの言葉が出てきます。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。さらに、新約聖書を見てみると、神の御子であるイエス・キリストが恵み深い方であり、この方のもとに来なさい、ということが言われています。新約聖書の中にこう書かれています。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主とは、イエス・キリストのことです。このイエス様のもとに来なさい、と言われるのです。私たちが、本当に味わいたい神の恵みは、イエス・キリストの恵みです。神のもとに逃れるということは、このキリストのもとに逃れて来るということです。

しかし、このイエス・キリストは、人々からは見捨てられたとありますように、いわゆる見た目で人を惹きつけるような魅力のある方ではありませんでした。キリストは、人々から見捨てられて十字架に付けられた方です。しかし、その十字架のキリストが、人々からは見捨てられても、神にとっては選ばれた、尊い生きた石なのです、ということが聖書で言われています。

つまり、この十字架のキリストが、私たちの人生を支える生きた石、土台となるお方です。ラジオを聞いておられるあなたも、このキリストの下に逃れて身を寄せていただきたい。本当の安らぎを味わっていただきたいと思うのです。教会では、この十字架のキリストを味わい続けていくこと、礼拝することが今日もなされています。ラジオを聞いておられるお一人お一人が、このキリストの下に逃れ、身を寄せて、お近くの教会へと導かれることを願っています。

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