霊の体で永遠に

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聖書の言葉

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいにものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 15章42~44節

大野桂一によるメッセージ

私たちの国は、死がタブー視され、特に現在は病院で亡くなる方が8割だそうで、死が益々遠くなってきました。死が遠くなり死を考えなくても、死は100%やって来る私たちの最大の敵で、愛する人々との別れの時が必ずあるのです。

一体死後の世界は、どのようなものなのでしょうか。肉体は物質に帰り、何もかも全くの無になっていくのでしょうか。肉体は汚れており滅びるが、霊魂は清いから霊魂だけが天に昇っていくのでしょうか。あるいは、この世の善い生き方で極楽浄土に、悪い生き方で地獄にいくのでしょうか。

人は人間的に如何に多くの善行をなし、道徳的な人であっても、優越感をもち他人と違うと、高慢になったり他人を見下だしたりするような罪は、全く無いのでしょうか。

聖書は、全ての人は霊魂も肉体も人全体が汚れ、罪があると言っているのです。

旧約聖書の創世記によると、神が天地総てを創られました。最後に神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれ、人は生きるものとなりました。息を吹き込まれたとは、霊性・霊魂を与えられたと云う事です。それは人が霊において神と交わるためなのです。

神が命の息を吹き込まれなかった動物は、神や死を考える事は無いと言われています。神、永遠の未来などを想うのは人間だけなのです。

人は肉体においては動物と同じように大地と連なり、霊性においては神に連なり、肉体が滅んでも、霊において神に連なる者として創造されました。しかし、最初の人は、神のようになりたいとの欲望から、神が禁じられたたった一本の木の実を食べ、自分自身を神のように振る舞う自己中心的なエゴを持つ者となり、神との交わりが断たれたのです。

この神と交わりのない状態が、聖書で云う罪であり、罪の為に死が入ってきたのです。

そのような罪ある人間を、神は尚も憐れみ、2000年前に神のひとり子イエスをこの世に遣わし、人の総ての罪をイエスに担わせ、十字架に架けて処分し、3日後、主イエスを復活されました。主イエスの十字架と復活は、天地を創造された神の業でありました。

この十字架を信じる者は、既に罪は処分済みですから、罪が無い者として看做して下さり、義人として神と永遠の交わりを回復して下さるのです。

十字架の時逃げ去った弟子や五百人以上の人が、復活された主イエスを目撃しました。

弟子たちは復活された主イエスに出会い、十字架が自分達の罪を赦す為の身代わりの死であり、神が主イエスを復活されたのは、主イエスと同じように人を復活させる為であったと、信仰の眼差しをもって悟り、そしてキリストを信じる集会が始まったのです。

主イエスの復活があったからこそ、キリスト教がおこったのです。

本日の御言葉を記したパウロは、ユダヤ教の中でも最も厳格に神の掟を守り、そして救われようと励むファリサイ派のエリート中のエリートであり、行いではなく信仰を重んじるイエスの教えは、神の掟をないがしろにする邪教であると考え、クリスチャンを迫害し、ダマスコにいるクリスチャンを捕まえに行く途中で、復活の主イエスに出会いました。

そして彼は主イエスを受け入れ、その後迫害に迫害をうけても、命をかけて主イエスの十字架による罪の赦し、主イエスの復活を宣べ伝えて殉教の死を遂げていったのです。

ここで云っている人の復活とは、この肉体をもった私たちがそのままの姿で復活することではありません。キリスト教で言う命とは、私たちが罪を赦され、正しい者、義人とされて、神と交わりに生きる事なのです。この世にあっても死後も、具体的な私という存在が、神と交わることが生きることなのです。

この世の最後の時、キリストが再び来られる時、私たちの霊は体を与えられ、霊の体をもって、多くの愛する人々と共に神と永遠の交わりに生きるのです。

では、どのような霊の体に復活するのでしょうか。それが本日の御言葉です。植物の種をまくと、種そのものは死んで、新しい芽が出るように、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

現在の朽ちる体が朽ちない体に、卑しい体が輝かしい体に、弱い体が力強い体に、血肉の体が霊に属する体に、地に属する者が天に属する者へと変えられるのです。

復活した霊の体は、新しい次元の体であり、現在の体と不連続の面がありますが、連続の面もあり、あなたはあなたとして特徴があるのです。この霊の体をもって神と交わり、愛する方々と共に永遠に生きるのです。

私たちに復活の希望が無ければ、歳をとり段々と死が近づいてくる日々は、悲しい恐るべき日々となっていくでしょう。

私たち自身の復活の希望があるからこそ、絶望的な死の瞬間でも、死を打ち破って復活されたキリストと結びついて、私が復活する希望の光が与えられているのです。

神はキリストを通して、罪びとである私たちに、ただキリストを信じる信仰による救い、再び神と交わりに生きる命、永遠の命を与えて下さっているのです。

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